大坂城
(おおさかじょう)

国指定特別史跡、百名城

             大阪府大阪市中央区     

大坂城天守閣
▲ 昭和六年(1931)に完成した復興天守閣。徳川期の天守台に豊
  臣時代の天守閣を再現した。国内復興天守閣の第一号である。

天下統一の巨城

 この地、大阪を天下平定の城地として最初に着目したのは織田信長であった。要害の地であるとともにその立地条件から近代都市への発展の可能性を見通していたのである。

 信長は、足利義昭を奉じて入京してから一年少したった元亀元年(1570)正月、大坂の石山本願寺に対して立ち退きを要求したが、本願寺側はこれを拒絶した。諸氏周知のごとく、これを皮切りに信長と本願寺の熾烈な戦いが十年にわたって続くことになった。

 本願寺側がこの地に本拠を置いたのは信長同様の先見性からではない。本願寺中興の祖とされる蓮如の隠居所として築かれたことに始まり、石山御坊と呼ばれていた。

 ちなみに石山という地名ははるか昔に聖徳太子が四天王寺を建てるため地ならしした際の石を集積して埋めたところからそう呼ばれるようになったと云われている。

 明応五年(1496)、蓮如はこの伝説の地に仏縁を見出したのか一向念仏の道場を営み、石山御坊と名付けたのである。

 天文二年(1533)、本山である山科本願寺が六角定頼と法華一揆の軍勢によって全焼させられたのを期に本山を石山御坊に移し、石山本願寺となった。直ちに壮大な伽藍建造がはじまり、同時に戦国乱世を生き残るために城郭要塞化の建築も進められた。

 信長との戦いは浅井、朝倉、上杉、武田、三好、毛利といった戦国大名を味方につけ、大規模な反信長包囲網を構築しての戦闘であり、はじめの頃は野戦でもしばしば織田軍を壊走させる場面もあって優勢に進むかのようであった。

 しかし、信長は包囲網のひとつひとつを確実に潰し、やがて本願寺は織田軍の包囲下に置かれ、籠城の歳月を重ねるだけの状態となった。

 天正八年(1580)四月、これ以上の籠城抗戦は無理と判断した第十一世顕如は信長の講和を受け入れ、紀州鷺ノ森に退去した。抗戦派の教如らがなおも八月まで籠城していたが、彼らの退去の際に火が放たれ、堂塔伽藍は全焼してしまった。いわば本願寺大坂城の落城である。

 長年月の末に大坂を手に入れた信長であったが、その廃墟を復興する間もなく本能寺に斃れてしまった。

 この後は、叛臣明智光秀を屠り、家中筆頭の柴田勝家を滅ぼした羽柴秀吉が織田遺臣中第一の実力者として天下統一の事業を推し進めてゆくことになる。

 いち早く上方を押え、摂津を手に入れた秀吉は信長の斃れた翌天正十一年(1583)九月には諸大名及び全国の職人を総動員して大坂城の築城を開始した。普請奉行は石田三成、増田長盛、浅野長政である。

 まず本丸工事が始められ、石垣工事は約二ヶ月で終った。日あたり二〜三万人、あるいは五万人の人夫が動員された突貫工事であった。本丸完成は天正十三年春となっている。これだけの人数を動員しての工事であるから城下町も必然的に発展、賑わいをみせてくる。

 翌天正十四年からは第二期工事ともいえる二の丸の工事が開始された。普請総奉行は豊臣秀長、主に毛利氏などの西国の諸大名が動員された。完成は天正十五年秋、本丸工事を上回る大工事であった。

 この大坂城、ただ巨大なだけではなかった。その仔細は諸書に譲るが、訪れる者を驚嘆させずにはおかない豪華絢爛さ、贅沢の粋を極めた装飾、調度の数々は天下人たる秀吉の威信と権威を象徴していた。

 文禄三年(1594)、待望の一子秀頼の誕生をみた秀吉は大坂城をより堅固にするために惣構(そうがまえ)の構築を命じた。これは大坂城の東西南の三方を大きく取り巻いた堀と土塁による防御線である。これによって十万の大軍でも容易に収容でき、また防御に就かせることができる。無論、これらの兵を長期間養えるだけの黄金をも十分に蓄えた。すべては秀頼のためであり、大坂城を堅固にすることは豊臣家を堅固にすることであったのだ。

 しかし、わが身の亡き後、第一の実力者となるのは徳川家康であった。秀吉は家康を信頼、というより頼みにせざるをえなかった。ある日、秀吉は家康を天守閣に招き、完成した惣構を俯瞰しながらこう云った。
「この城を落とす方法はただ一つ、和議に持ち込み、その条件として外濠を埋め塀を壊させる。しかる後にまた攻めるのじゃ」(武功雑記)
 弱みを見せることで家康の忠義心をつかもうとしたのか。話しそのものは後の作り話しであろうが、この時期の秀吉にはありそうなことである。

 慶長三年(1598)、秀吉没す。享年六十二歳。翌年正月、秀頼と淀殿が大坂城に入った。

 これ以後、家康と淀殿、秀頼母子の戦いがはじまったといってよい。慶長五年の関ヶ原の戦いでは、豊臣家は一大名の地位に落とされた。家康はじりじりと豊臣家を追い詰めていった。

 慶長十九年(1614)、家康はついに豊臣討伐の兵を挙げた。大坂冬の陣である。二十万以上の大軍で押し寄せ、豊臣方を惣構内に封じ込めたまではよかったが、戦闘はそこで膠着した。惣構を破ることができないのである。家康は和議に持込んで、濠を埋め、塀を壊した。予定の行動であるかのように。

 大阪城を裸城にした家康は再び攻めの兵を挙げた。夏の陣である。もはや城塞としての機能をなくした大坂城は単なる建造物にすぎなくなっていた。家康得意の野戦によって大坂方は各個に撃破され、慶長二十年五月八日、わずか十日余りの戦闘で落城してしまった。

 廃墟と化した大坂城の再建は元和六年(1620)から全国の諸大名を動員してはじまった。工事は豊臣時代の城域を全面改築、それを上回る大規模な構想で進められ、十年の歳月を経て完成した。江戸城名古屋城と同じく、白亜漆喰を基調とした徳川式大坂城である。天守閣は豊臣時代の五重と同じながらもその高さは20b近くも高く、まさに徳川幕府の威信を誇示するに十分であったといえよう。

 しかしながらこの大天守も寛文五年(1665)に落雷を受け、炎上焼失してしまった。その後は再建されることはなかった。

 この城に再び甲冑姿の兵が充満する日がめぐってきた。二百年以上続いた泰平がここに破れようとしていたのである。明治元年(1868)、大政奉還、王政復古によって幕府は解体、徳川慶喜は新政府から除外された。慶喜は戦いを避けるために京都から大坂城に移ったのである。幕軍一万は大坂城で一戦するのだと続々と集結した。

 しかし結果は周知のごとく、鳥羽伏見の戦いに敗れたとみるや、慶喜は海路大坂を脱出して江戸へ逃げ帰ったのであった。残された幕軍は散々となり、大坂城は薩長によって接収された。その後間もなく本丸から出火、建造物の大半が焼け落ちてしまった。

 戦国の最後に燃え、そして徳川の終わりに燃えた。まるで時代の区切りをつけるかのように。
千貫櫓
▲ 西外濠から千貫櫓(手前)と多聞櫓を望   見。濠に架かる土橋は大手口である。
蓮如上人遺跡碑
▲ 蓮如上人遺跡の碑。この脇に上人袈裟懸けの松と呼ばれる根株が保存されている。石山本願寺時代の名残をわずかに留める遺跡となっている。
乾櫓
▲ 西の丸西北隅の乾櫓。千貫櫓とともに城内最古の建造物である。
天守閣
▲ 復興天守閣は鉄筋コンクリート造りで、石垣に直接重量をかけない工夫がとられている。内部は資料展示施設となっているが、これらの形態はその後の天守閣再建のモデルとなった。
内濠と石垣
▲ 本丸東側の内濠と石垣。その向うのOBP(大阪ビジネスパーク)に建つ高層ビルは大阪経済の象徴でもある。
桜門
▲ 本丸入口である桜門。
蛸石
▲ 桜門枡形にある蛸石。城内最大の巨石である。
備前岡山藩主池田忠雄によって搬入された。
----備考----
訪問年月日 2005年11月5日
主要参考資料 「日本城郭総覧」他

トップページへ 全国編史跡一覧へ