知覧城
(ちらんじょう)

国指定史跡、続百名城

           鹿児島県南九州市知覧町永里    


▲ 知覧城の本丸(右側の台地)と東ノ拵(左側の台地)の間の大空堀。

佐多殿の由緒の地

 知覧城は鹿児島特有のシラス台地とその浸食谷を利用して築かれた山城である。浸食谷が空堀となり、各曲輪が独立して構成されている。

 本丸、今城、蔵之城、弓場城と名付けられた曲輪群が主要城郭部分で城内と呼ばれている。さらにその外周を取巻くように空堀で隔てられた曲輪群が存在するという珍しい城である。

 この知覧城がいつ頃築かれたのかは明確でないが、南北朝時代の中頃ではないかと思われる。それは文和二年(1353)に足利尊氏が島津家五代当主貞久の弟忠光(佐多氏初代)の軍功を賞して知覧の地を与えており、南北朝争乱の只中のこともあって知覧に移った忠光が防衛のための城を必要としたものと思われるからである。

 忠光は、知覧移転前は大隅国佐多村を領地としていたことから佐多氏を名乗っていた。この佐多忠光来住以前の知覧の統治状況はあまり判然としていない。元々は薩摩平氏の勢力下にあったようで、平忠益が郡司として存在していたようである。鎌倉時代になると島津氏が地頭職となり、郡司と地頭(代)の二者が並存することになった。その後両者、つまり郡司系知覧氏と地頭系知覧氏は互いに争いと和解を繰り返し、やがて没落してしまったといわれている。したがって佐多忠光の知覧移住当時には有力な統治者は存在しなかったといえようか。

 応永二十四年(1417)当時、知覧は伊集院一族の今給黎(いまきいれ)久俊の押領するところとなっており、この時期の佐多氏は知覧から追われていたことになる。

 応永二十七年(1420)、今給黎久俊は島津久豊(島津家八代当主)に降伏して知覧城を退去した。知覧城に入城した久豊は、
「佐多殿由緒の地なり」
 として改めて知覧を佐多氏のものとしたのである。この時の佐多家当主は四代親久であった。

 その後は佐多氏が知覧城主として代々続き、島津家の有力武将として活躍した。天正五年(1587)の豊臣軍との戦いでは十代久政が豊後国田北城の戦いで討死を遂げている。

 天正十九年(1591)、十一代久慶のときに家人の海賊行為が島津義弘の知るところとなって怒りをかい、知覧を没収され、隣村の川辺宮村に移転させられている。

 文禄四年(1595)、太閤検地によって種子島が島津以久の所領となったのに伴って種子島久時が知覧の領主となった。

 しかしこれは一時的なもので、慶長四年(1599)に久時は種子島に戻された。
 その後、知覧は島津家の直轄領となっていたが慶長十五年(1610)になって佐多氏に戻された。十二代忠充の時である。

 佐多氏が知覧を離れていた間に知覧城は火災により全焼してしまったようである。佐多氏が復帰した後に知覧城が修復された様子もないことから放置廃城となったと思われる。

 さて知覧に復帰した佐多氏であるが、その後も島津家の有力家臣として仕え続け、十六代久達(養子/島津光久五男)以後は島津姓を許され、家老を務めている。

 知覧は多くの武家屋敷が残り、保存されていることで有名な観光地となっているが、その屋敷群を整備したのが十八代久峰(宝暦年間/1751-64)であったと伝えられている。

 佐多氏は二十二代久徴に至り明治を迎えた。

 現在、多くの人たちが江戸期に薩摩藩の外城として整備された武家屋敷群に足を運んでいる。この知覧城跡は、ただ静かにそれを見守っている。

▲ 本丸跡に建てられた城址碑。
 ▲ 駐車場入口の知覧城の説明板。
▲ 説明板(タイルで出来ている)の知覧城空撮写真。ボコボコと各曲輪が地面から突き出たように見える。

▲ 本丸と蔵之城の間の空堀。正面の階段は蔵之城への登り口である。

▲ 本丸には部分的に土塁の遺構が残っている。

▲ 蔵之城の虎口。通路は侵入者の勢いをそぐために折れ曲がっている。蔵之城は本丸の西隣の曲輪である。

▲ 城址北側の道路と駐車場。

----備考----
訪問年月日 2009年5月3日
主要参考資料 「日本城郭総覧」他

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