祇園之洲砲台
(ぎおんのすほうだい)

市指定史跡

            鹿児島県鹿児島市清水町       


▲祇園之洲砲台は海防のために島津斉彬によって整備され、藩製造の大砲6門が
配備されていた。薩英戦争では英国艦隊の砲撃で壊滅したもののその後も改修され
て利用されたが、西南戦争時に官軍によって使用不能にされた後官軍墓地となった。
(写真・砲台の石垣と記念碑。)

薩英戦争の薩摩藩砲台

 文久二年(1862)八月、江戸から京都へ向かう島津久光の行列を乱したとして供廻りの薩摩藩士が英国人三人を殺傷する事件が起きた。場所が生麦村(横浜市鶴見区)であったことから生麦事件と呼ばれている。この事件で英国は幕府に対して十万ポンドの賠償金を支払わせ、薩摩藩に対しても犯人の処刑と二万五千ポンドの償金を求めるために艦隊の薩摩派遣を決定したのである。

 英国極東艦隊が横浜を出港するのは事件から十ヵ月後の文久三年(1863)六月である。この間、英国側は幕府との交渉に時間を費やしていたことになる。

 一方、薩摩藩では英国艦隊との戦争は必至とみて臨戦準備が進められ、文久三年(1863)一月には藩主島津茂久臨席のもとに大操練が実施されている。その後も各砲台では実弾砲撃の訓練が続けられ、外国軍艦を恐れるどころか薩摩側はやる気満々であったのだ。薩摩の方言では肝のすわった人のことを「ぼっけもん」という。薩英戦争から討幕、新政府樹立、そして西南戦争へと進む鹿児島人はまさに「ぼっけもん」であったといえよう。

 ここ祇園之洲砲台は薩英戦争以前の嘉永六年(1853)に十一代藩主島津斉彬による海防対策として錦江湾(鹿児島湾)沿岸に設けられた砲台のひとつである。元々は十代藩主島津斉興の時代の藩政改革の一環として家老調所広郷が稲荷川の浚渫土を利用して埋め立てられた所で、兵の屯集所となっていた。そこを斉彬の命によって砲台として整備されたのである。砲台の大砲は藩の工業地帯ともいえる集成館で製造されたもので、六門が配備された。内一門は150ポンドボンカノン砲と呼ばれる大きな大砲であった。射程はいずれも1000mである。錦江湾の最狭部である現在の鹿児島港と桜島港の距離が約3kmである。桜島側の砲台から砲撃しても射程外の海域が1kmほどできてしまうことになる。

 そんなことは当時の薩摩人には大した問題ではなかったのだろう。六月十九日には錦江湾にて大規模な模擬戦が実施されている。「いっでんけ(いつでも来い)」といったところである。

 大規模模擬戦の三日後の二十二日、ついに英国艦隊が横浜を出撃した。六月二十二日は新暦の8月6日、真夏である。旗艦ユーリアラス号(2,371t/砲35門)、パール号(1,469t/砲21門)、パーシューズ号(955t/砲17門)、アーガス号(981t/砲6門)、コケット号(677t/砲4門)、レースホース号(695t/砲4門)、ハヴォック号(333t/砲3門)の7隻の艦隊である。英国側も自信満々、これだけの艦隊を錦江湾に侵入させれば薩摩側はその威に屈して無条件で要求をのむことだろうと楽観的であったという。

 二十七日、英艦隊は佐多岬沖に到達し、その夜は湾内に入って停泊した。二十八日早朝から薩摩側の役人が旗艦ユーリアラス号と接触を開始した。同艦には英国代理公使ニールが交渉に備えて随行していたのである。交渉は翌日も続けられた。英側の要求は加害者の処刑と25,000ポンドの償金である。対して薩摩側は加害者は発見できず、責任は幕府にありとして英側の要求を突っぱねた。

 七月一日、薩摩側の態度に業を煮やした代理公使ニールは艦隊指揮官キューパー提督に強硬手段を要請した。

 二日早朝、英側が動いた。湾の奥に停泊(脇元浦/姶良市)していた藩の汽船青鷹丸、白鳳丸、天祐丸を拿捕したのである。先に手を出したのは英側だった。薩摩側は艦隊の動きを注視しつつ正午になると天保山砲台が砲撃を開始した。同時に各砲台も砲撃開始、ここ祇園之洲砲台の大砲も一斉に砲撃をはじめた。

 英側は拿捕船の船内を略奪した後焼却処分すると旗艦ユーリアラス号を先頭に湾を単縦陣で南下を開始。薩摩側の砲台を目標に激しい砲撃を加えた。特に英艦のアームストロング砲の威力は凄まじく、祇園之洲砲台の大砲は順次破壊され、簡単に沈黙させられてしまった。艦隊の最後尾のレースホース号が祇園之洲砲台の目前で座礁して停止したのであるが、全ての大砲を破壊された後であったから、砲台の薩摩兵は為す術もなかったという。レースホース号は妨害を受けることなく他艦に曳航されて危地を脱した。

 夜、英艦隊は城下をロケット弾で攻撃、多くの民家を焼いた。また、集成館の工場なども砲撃して壊滅させた。

 翌日、英艦隊は南下して鹿児島沖を離れ、四日には錦江湾を出て横浜に向かった。

 英側の被害は旗艦ユーリアラス号の艦長、副長を含む戦死11名、負傷52名、大破1隻、中破2隻となっている。薩摩側の戦死は5名といわれているが、城下を焼かれ、砲台は壊滅してしまった。やる気だけでは敵わぬことを身をもって知ったのである。

 その後、薩摩は英国に急接近して西洋技術を取り入れ、討幕回転の主役となって行くのである。


▲南側(海側)から見た砲台跡。
 ▲砲台の胸墻石垣と史跡表示。
▲昭和49年(1974)に鹿児島市の史跡に指定された。

▲砲台跡は西南戦争(明治10年/1877)後、官軍墓地となった。右の石碑には官修墳墓とある。

▲西南の役官軍戦没者慰霊塔。鹿児島で戦没した官軍1,270余人が砲台跡に葬られたが、後年の荒廃が著しく、昭和30年(1955)に収骨・合葬された。

▲慰霊塔前の説明板。

▲胸墻の石垣はくの字形に100m以上続いている。

▲薩英戦争時には英艦隊から最も激しい砲撃を受けて壊滅した。

▲砲台跡の説明板。

▲説明板にあった砲撃戦の絵。戦闘の起きた日の天候は風雨が強かったと言われ、台風の影響を受けていたのであろう。

▲説明板の英艦隊の進路図。黄丸の所が祇園之洲砲台である。

▲胸墻上に建てられた記念碑。

▲「旧薩藩砲台跡」と刻まれている。
----備考----
訪問年月日 2015年8月10日
主要参考資料 「遠い崖2薩英戦争」他

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