石田城
(いしだじょう)

           長崎県五島市池田町      


▲ 石田城(福江城)は幕末期に海防強化の理由により幕府から
築城を許された城であり、幕藩体制下最後の築城となった城であ
る。これは城址北西側に残る蹴出門と外堀に架かる石橋である。

国内最後の築城

 石田城は正しくは福江城と呼ぶそうだが、史跡としての表記は石田城となっているので、ここではそれに従うこととする。
 石田城の完成したのが文久三年(1863)であるから明治維新のわずか五年前のことであった。江戸幕府治下最後に築かれた城として北海道の松前城とともに並び称される城でもある。
 石田城主である五島氏は福江藩一万五千石の外様大名である。その祖は福江島に移る以前に宇久島(福江島の北北東約70km)を拠点としていたことから宇久氏を称していた。その宇久氏は源平合戦の壇ノ浦の戦いの後に平家盛(平清盛の異母弟)が宇久島に城館を構え、宇久氏を称したことにはじまると伝えられている。他に清和源氏武田信弘が宇久島に移り、宇久家盛を称したのにはじまるとの説もあるが、いずれも伝承の域を出ないものと思われる。
 この宇久氏が福江島北岸の岐宿に移ったのは弘和三年(1383)八代覚によってであった。そして元中五年(1388)に九代勝が福江に移り、代を重ねて戦国時代となる。大永元年(1521)、十七代盛定は家臣玉之浦納の反乱で五島を離れるが、大永六年(1526)に松浦氏の協力で玉之浦納を討伐して復帰した。文禄元年(1592)、二十代純玄の時に姓を五島に改め、二十一代玄雅が一万五千石の朱印を賜り、福江藩を立藩した。寛永十四年(1637)、二十二代盛利の時に石田城の前身である石田陣屋が完成した。
 しかし、城主格でありながら城持ち大名になれなかったことが無念であったようだ。文化三年(1806)、二十八代盛運(もりゆき)が異国船に対する海防を理由に築城を幕府に願い出たが却下されている。その後、長崎でフェートン号事件が起こるなどして異国船対策の強化が叫ばれるなか、文政三年(1820)に二十九代盛繁が再び築城許可を願い出たが、これもまた許可されなかった。
 嘉永二年(1849)七月、幕府はついに海防強化のために松前藩とともに福江藩に対して築城を許可した。三十代盛成は翌月直ちに着工、築城を開始した。盛運の築城願いから実に半世紀近くを経ていたのである。
 工事の進捗は遅々としていたようで、完成したのは文久三年(1863)のことであった。松前城が嘉永七年(1854)の完成であったから三倍近くの時間を要したことになる。
 文久三年といえば、下関戦争、薩英戦争、天誅組の乱などが起き、尊皇攘夷の嵐が吹き荒れた年でもある。
 やがて倒幕の流れは抑え難くなり、ついに明治維新(1868)を迎えることになる。同時に幕藩体制下における石田城の役目も終わった。完成からわずか五年後のことであった。

▲ 城址南西側に残る長石垣。
 ▲ 福江港に到着するとこの常灯鼻が目に入る。石田城築城当時、防波堤と灯台の役目を持って造られた。
▲ 港からまっすぐ歩いてくると城につきあたる。この城郭風の建物は五島観光歴史資料館である。五島の歴史や自然がシアターで紹介されている。

▲ 表門。枡形となっている。

▲ 水門。築城当時、城の北東側は海に面しており舟で出入りできたようだ。

▲ 本丸北側の石垣と内堀。建物は五島高校の校舎である。

▲ 城内西側に設けられた五島邸の門。五島邸は安政五年(1858)に藩主盛成の隠居所として造られた。

▲ 城址南西に続く長石垣に設けられた裏門。五島高校の校門でもある。

▲ 本丸石垣と内堀。毎日お城に通う高校生がうらやましい。

▲ 福江港ターミナル。長崎港からジェットフォイルで約1時間半、石田城址はここから徒歩で5分ほどである。
----備考----
訪問年月日 2011年5月2日
主要参考資料 「日本城郭大系」他

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