鹿屋城
(かのやじょう)

         鹿児島県鹿屋市北田町       


▲ 鹿屋城は肝付氏の分家鹿屋氏によって整備されたと見られており、
後には島津家重臣伊集院氏によって改修されたものと思われる。
(写真・南側から見た城山。)

肝付一族鹿屋氏の古城

 鹿屋城の築城者として現地案内板等には「古城主由来記」を出典として「島津久経時代津野四郎兵衛、鹿屋城主」として津野氏をあげている。そして承久年間(1219-22)頃のこととしている。

 しかし、島津久経が三代当主であった期間は文永二年(1265)から弘安七年(1284)であるから築城を承久年間とするのは疑問である。別の資料「三国名勝図会」には津野四郎兵衛は正中年間(1324-26)串良(鹿屋市東部)院の地頭であったそうで、地頭館の場所には「鶴亀城」がある。鹿屋城は「亀鶴城」と呼ばれているから混同されている可能性もあろうか。

 大隅半島には島津氏入部以前から肝付氏が勢力を張っており、南北朝時代には島津氏と肝付氏の抗争が激しくなっていた。やがて北朝島津氏が優勢となると肝付氏は島津氏に従うようになり暫くは平穏な時期が続くことになる。そうした時期の応永七年(1400)、七代島津元久は肝付氏分家の鹿屋忠兼に鹿屋郷を与えたと言われている。この鹿屋忠兼が鹿屋城を築いたかあるいは砦程度であったものを改修した可能性が高いと思われるがどうであろうか。

 島津氏と肝付氏の友好的な関係も永正(1504-21)の時代以降は対立抗争の関係に変わる。享禄三年(1530)には鹿屋城は肝付氏の領有する所となったと言う。その後、肝付氏の勢威は島津氏を圧倒するほどになるが、天正二年(1574)にはついに島津氏に降り、戦国大名としての肝付氏の歴史は終わった。

 天正五年(1577)、島津氏は薩摩、大隅、日向の三国統一を果たし、翌年には耳川の戦いで豊後の大友軍を壊滅させた。天正八年(1580)、肝付氏の所領であった高山(肝付町)及び鹿屋は島津氏重臣伊集院忠棟に与えられ、彼が鹿屋城主となった。

 伊集院忠棟は城下を整備し、城も修築され、領内には善政を布いたと言われる。天正十五年(1587)の豊臣秀吉による九州出兵の際には島津氏存続のために奔走した。文禄四年(1595)には豊臣氏から都城八万石に封ぜられ、鹿屋城を去った。

 ちなみに豊臣氏に通じる忠棟は島津家中から反感を買い、ついには島津家久により国賊として成敗され、さらに妻子も殺されて忠棟は島津家から抹殺された。

 伊集院氏の転封後、鹿屋城は垂水島津家の島津相模守久信が一時居城した後に廃城となったという。


▲ 本丸南端部の土塁跡。
 ▲城山公園駐車場の西側の坂道を登ると火山灰の堆積したシラス崖が右手(東側)に現れる。ここに城址説明板が立っている。
▲説明板の所から少し行くと右に入る道がある。この道を直進すると本丸に至る。この道自体が浸食された谷間となって空堀の役目を果たしている。右側が本丸の外郭となる今城、左側が同じく中城と呼ばれている。

▲ 中城側に建つ「史跡・鹿屋城址」の碑。中城自体は藪化が進んでおり、立入は困難と思われた。

▲今城の方は路が確保されており、立入可能である。

▲今城の平坦部。周囲には土塁の痕跡が今も残っている。

▲今城から戻り、本丸へと進むと「亀鶴城址」の碑が建っている。鹿屋城の別名である。

▲本丸の北側はひな壇状に高くなっている。

▲これは2段目から3段目を見たところである。

▲本丸の南側は平坦地となっており、展望台が設けられている。

▲平坦部東側縁辺部は低いが一段高くなっており、土塁跡と思われる。

▲本丸南端から展望した鹿屋市街地。

▲鹿屋城址の説明板。
----備考----
訪問年月日 2013年8月16日
主要参考資料 「日本城郭大系18」他

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