ひめゆりの塔
(ひめゆりのとう)

                  沖縄県糸満市伊原           


▲ 伊原第三外科壕跡に建てられた「ひめゆりの塔」。昭和26年4月に村民らの手によって建て
られた。「ひめゆり」とは第一高等女学校の校友会誌「乙姫」と沖縄師範学校女子部の校友
会誌「白百合」が、両校併置に伴い会誌もひとつとなって「姫百合」と名付けられたことによる。

死の解散命令

 昭和二十年(1945)五月二十五日、沖縄防衛の第三十二軍の南部(喜屋武半島)後退に伴い、南風原(はえばる)にあった陸軍病院も施設を放棄して南部へ移動した。
 この南部後退にともない、歩けない重傷者は残置され、青酸カリによって処置された。これは軍の南部後退による悲劇のはじまりでもあった。
 この陸軍病院には看護要員として222名の女子学徒隊が配属されていた。彼女らは沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校の生徒達で、後にいう「ひめゆり学徒隊」であった。
 後退命令の出た夜、彼女らは米軍の打ち上げる照明弾の明かりを避けながら陸軍病院を後にして南へと向かった。
 後退した陸軍病院は摩文仁村伊原(糸満市伊原)周辺の洞窟に分散配置された。
 これらの洞窟は隆起珊瑚礁の自然洞窟で、沖縄では「ガマ」と呼ばれている。当時、これらのガマにはすでに一般人が避難場所として使用していた。しかし軍は作戦のためとして避難民を追い出して多くのガマを接収したのである。陸軍病院が配置されたいくつかのガマもそうである。
 後退当初は波平、糸洲、伊原に外科壕が置かれたが、その後の米軍の進攻とともに波平と糸洲の外科壕は放棄され、そこに配属されていたひめゆり学徒隊は伊原の第一、第三の二つの外科壕に合流したのであった。この時点で19名の犠牲者が同学徒隊から出ていた。
 六月十八日、日本軍の陣地は各所で撃破され、全滅もしくは孤立し、もはや組織的な戦闘は不可能となりつつあった。
 この夜、外科壕の学徒隊に解散命令が伝えられた。これ以上軍とともに行動を強制することは彼女らに死を強要することになり、それを避けるための命令であったとも云われている。しかし米軍包囲下のもとでの解散はまさしく戦場に放り出されることであり、死の危険にさらされることに変わりはないのである。最後には自決、彼女らの多くがそう覚悟を決めた。

 ▲ 平成元年(1989)に開館した「ひめゆり平和祈念資料館」。建物や門の外観は沖縄戦突入当時の女師範と一高女の学舎を模して建てられた。
 翌朝、米軍はここ第三外科壕の入り口にガス弾を投げ込んだ。この攻撃で教師4名と生徒38名が死に、脱出直前の惨事となってしまった。
 生き残った生徒らは米軍の追撃に怯えながらさらに南へと向かった。いうまでもなくその先は海である。逃げ惑う彼女らは散り散りとなり、やがて居合わせた学友とともに手榴弾などで自決、または海に身を投げて果てていった。
 解散命令後の生徒の犠牲者は107名、まさに死の解散命令であったといえる。

▲ ひめゆりの塔とともに壕跡に建つ「沖縄陸軍病院第三外科壕跡」の碑。

▲ 壕跡近くに建つ「沖縄戦殉職医療人之碑」と「陸軍病院第三外科職員之碑」。

▲ ひめゆり学徒隊の姿をいまに伝える「乙女の像」。
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画像の撮影時期*2007/08