喜屋武岬
(きやんみさき)

                  沖縄県糸満市喜屋武           


▲ 喜屋武岬の海岸線。沖縄戦末期、追い詰められた県民たちには自決以外にに残
された道はなく、多くの人々がこの崖から飛び降りて自らの生命を絶ったという。

沖縄戦、
      悲劇の岬

 昭和二十年(1945)四月一日、米軍の嘉手納海岸への上陸開始。五月下旬には、日本軍は米軍の物量にじりじりと押され、戦闘は首里の攻防をめぐる戦いへと移っていた。
 ここまでは軍作戦の想定内で、県民の避難は米軍上陸前に予定通り進められていたと云われている。
 ところが、沖縄防衛の第三十二軍司令部内では首里高地を死守して玉砕するより、米軍の本土上陸を遅らせるためには長期持久戦に持ち込むべきであるとして南部後退の作戦が決せられたのである。作戦方針の転換であった。沖縄南部の喜屋武半島へ後退して最後の最後まで戦い続けるということなのである。
 だが、この後退作戦は南部在住またはこの方面に非難していた県民たちを戦場にさらし、戦火に巻き込む結果となってしまったのである。
 軍の南下とともに一般人たちも南へ南へと避難場所を求めて移動した。この過程で多くの悲劇が起きてしまったことを私達は忘れてはならない。一般人が避難していた洞窟や壕に兵隊が入り込み、作戦と称しては一般人を砲弾の飛び交う地上に追い出したという例もあったようだ。また軍の構築した陣地内に避難してきた一般人を軍は追い出したとも云われている。一般人を戦火に巻き込まぬためという軍の言い分もあるのであろうが、県民を守るための軍ではなかったのか。いずれにせよ、これが戦争というものの実態なのである。
 さて、南部に後退した日本軍の各部隊は物量豊富な米軍を相手に死力を尽くして戦い続けたが、六月も半ばになると各戦線で全滅する部隊が続出した。六月十八日、摩文仁の丘に後退していた軍司令官牛島満中将は「最後まで敢闘せよ」と残存各部隊宛に最後の命令を下した。つまり玉砕命令である。
 ここ喜屋武岬付近に後退して戦い続けていた第六十二師団は二十二日、ついに力尽き、師団長以下師団幹部が自決して玉砕した。翌日、摩文仁の軍司令部では牛島軍司令官と長参謀長が自決、軍としての組織的戦闘に終止符を打った。
 軍は壊滅し、岬の戦場に取り残された一般住民は悲惨であった。ある者は手榴弾などで自決し、またある者は岬の崖から身を投げるなどして多くの人々が悲惨な最期を遂げた。

 ▲ 岬には戦死した将兵と散華した住民の遺骨一万柱を奉納した「平和の塔」が建っている。
----備考----
画像の撮影時期*2007/08