今帰仁城
(なきじんじょう)

                  沖縄県国頭郡今帰仁村字今泊       


▲ 今帰仁城の正門「平郎門」。門の両脇に狭間が設けられている。昭和31年の修復である。

三山鼎立、
      北山の王城

 沖縄が中山王となった尚氏によって統一される以前の三山時代、つまり沖縄本島を三分して北山(現在の金武町以北)、中山(現在の那覇から読谷に至る本島中部)、南山(現在の南風原町以南)と呼び、それぞれに王が君臨して覇を競った時代、14世紀頃のことである。ここ今帰仁城はその三山のひとつ北山の王の城であった。
 三山の王たちはそれぞれ大陸の明に朝貢することによって交易を重ね、富を蓄えた。中国の史書「明実録」によれば北山の王を山北王と呼び、三代の王の名が記されている。1383年から1395年にかけては怕尼芝(はにし)、1395年に珉(みん)、1396年から1416年にかけては攀安知(はんあんち)という名の王である。
 歴代の王の事績についてはよく分からないが、北山最後の王であった攀安知については武勇に優れて淫逆無道であったと云われている。もっともこの評価は後に沖縄を統一した尚王統によって編纂された「中山世譜」などによるものであるから鵜呑みにはできないであろう。
 ともあれ、1416年に山北王攀安知は中山王思紹によって滅ぼされるのである。
 ことのいきさつはこうである。
 山北王攀安知のもとに本部平原(もとぶていばら)という剛勇かつ強欲の武将がいた。平原は攀安知に中山を攻略しようと進言して今帰仁城内に兵馬を集め、気勢を上げた。
 ところが山北王支配下の羽地、国頭、名護などの諸按司(豪族)は日頃より攀安知に不満を抱いており、挙兵の事実を中山王思紹に伝え、先手を打って今帰仁城を攻めるように進言したのである。そこで思紹は息子の巴志に軍を授け、先の按司たちの軍と合流して今帰仁城を攻めさせた。
 しかし、今帰仁城は堅城で簡単には落ちなかった。そこで巴志は欲深の本部平原に賄賂を贈り、寝返りを約させたのである。

 ▲ 城の最奥部で裏門のある志慶真門郭(しじまじょうかく)から見上げた主郭の城壁。
 次の日、平原は、
「われは裏手の敵を討つゆえ、王は表の敵を蹴散らしたまえ」
 と進言した。
 攀安知は平原の謀計とも知らずに表門から打って出、逃げ腰の中山軍を追いかけた。ところが振り返ると城内から火の手が上がっているではないか。
「まさか」
 と馬首を返すと城門から平原が太刀を振りかざして襲い掛かってきた。
「平原よ、裏切ったか」
 と一騎打ちとなった。
 怒り狂った攀安知は先祖伝来の宝剣「千代金丸」で平原を討ち取り、城内に駆け入った。そして城の守護神であるカナヒヤブの霊石を斬りつけたのである。無論、いかに宝剣といえども霊石は切れなかった。攀安知は、もはやこれまでと城壁の外側を流れる志慶真川(しじまがわ)に宝剣を投げ捨て、別の刀で自害して果てた。
 これが山北王の最期である。後日、宝剣「千代金丸」は川から拾われて尚氏のものとなり、同家の宝物として現在に残されている。また、攀安知の息子は沖永良部島に落ち延びたと伝えられている。
 さて、山北王攀安知を滅ぼした尚氏は北山地方を治めるために今帰仁城に監守を置いた。監守は代々尚氏の一族が世襲し、1665年に七世監守の向従憲が首里に引き揚げるまで今帰仁城は城として生きていた。
 その後も城は同家の管理下に置かれ続けたが、それは城としてではなく祭祀の聖域としてであった。
 
▲ 城址入り口に建つ城址碑。
 
▲ 城の正面にそびえる城壁。この内側は大隅(うーしみ)と呼ばれる郭である。
 
▲ 大庭(うーみやー)に建つ志慶真乙樽(しげまうとうだる)の歌碑。乙樽は城下の美女で王の側室として仕えていた。

▲ 大隅(うーしみ)とその城壁。ここは城兵の武闘訓練の場であったとみられている。

▲ 御内原(うーちばる)と呼ばれる一郭は城内でも最も神聖な場所である。ここにはテンチジアマチジという自然石の拝所がある。これは城の霊石カナヒヤブとして昔話に登場している。

▲ 主郭(本丸)には火神(ひのかん)の祠と山北今帰仁城監守来歴碑記という石碑が建っている。祠には監守一族の火神が奉られ、石碑は1742年に監守の末裔・今帰仁王子朝忠・尚宣謨によって監守の来歴を後世に残すために建てられたものである。

▲ 主郭の背後の郭で志慶真門郭(しじまじょうかく)という。家臣たちの生活の場であったとみられている。

▲ 正門である平郎門の内側。狭間のある凹みには番卒が詰めて外を見張っていたのであろうか。

▲ 今帰仁村歴史文化センター。
----備考----
画像の撮影時期*2007/08