板東俘虜収容所
(ばんどうふりょしゅうようじょ)

              徳島県鳴門市大麻町       

友愛の碑
▲ 夏草の生い茂る収容所跡に設けられた「友愛」の碑。

武士の情け

 大正三年(1914)八月、日本はドイツに宣戦を布告、約三万の軍で青島を包囲した。第一次世界大戦における日本の参戦である。

 対するドイツ軍は約四千九百の兵力で、青島の諸砲台に拠って戦うことになった。

 日本軍の総攻撃は十月三十一日から始まり、十一月七日には突撃によって諸塁が落ちるなか、白旗が各砲台にあがった。午前六時三十分のことであった。

 この結果、日本軍は三千九百六名のドイツ軍将兵を捕虜として収容することになった。

 第一次大戦は同盟関係にある英国の要請で日本は参戦したのであるが、これ以後も軍は中国に留まり続けることになる。このため英国との関係も冷め、やがて悲劇の第二次大戦へと日本は突き進んで行くのであるが‥‥。

 ともあれ、この当時の日独の、殊に将兵間の憎悪や確執はなかったと云ってもよい。ドイツ将兵の憎しみは日本を煽動した英国に向けられ、また日本軍にとってもドイツは陸軍の手本とする国であり昨日までの友好国であった。このことがその後の捕虜の取り扱いに影響していたともいえる。

 さて、軍民合わせて四千人以上の俘虜(=捕虜)は習志野、名古屋、大阪、姫路、福岡、久留米、熊本、松山、丸亀、静岡、大分、徳島の施設に収容された。日露戦争のときもそうであったが、収容施設には寺院、公会堂などの既存建物が充てられた。

 しかし、戦争の長期化は軍の俘虜情報局に収容所の統合改編を実施させることになったのである。

 それが「あ号計画」というもので、四国の収容所を一ヵ所に統合するというものであった。そして、当地がその候補地となり、突貫工事で収容所建設がなされたのである。完成したのは大正六年三月であった。

 所長は陸軍歩兵大佐松江豊寿である。下北斗南の出身、旧会津藩士の家に生まれた松江は幼い頃から降伏人の辛苦と薩長に対する恨みを聞かされて育った。このことが、俘虜に対する扱いににじみ出ている。四月六日の開所式で松江は所員に対し、
「武士の情け。これを根幹とすべし」
 と訓じた。

 徳島、丸亀、松山の各収容所が閉鎖され、ここ板東へ俘虜が移転してきた。総数千十九人であった。内訳は第三海兵大隊と膠州海軍砲兵大隊の所属者が大半であった。

 所内における俘虜たちの活動は多岐にわたり、スポーツ、音楽、文化と各方面にわたり活発に行われた。

 とくに音楽活動では複数の楽団が結成され、大正七年六月には日本ではじめて第九交響曲が演奏されたのである。

 また、建築活動も盛んで、牧舎(徳島県の酪農発展に寄与した)や橋(住民の利便のために十一の橋が造られた)が建造されている。当然、俘虜と地域住民との交流も盛んに行われていた。

 後世の収容所というと、虐待、拷問という言葉が連想されるが、ここ板東ではそれは無縁であったかのようである。

 大正七年十一月、ドイツ降伏。大正九年、ヴェルサイユ条約にドイツ批准。こうして俘虜は五年余におよぶ収容所生活から開放、帰国の途についたのであった。

 その後日本は日中戦争、太平洋戦争へと突き進み、昭和二十年国力を消耗し尽くして敗戦をむかえる。

 戦後、草木に埋もれていたドイツ俘虜同胞の慰霊碑が、引揚者の高橋春枝さんや地域の人々の手によって守られ続けた。このことが現在の鳴門市とドイツとの交流に発展しているのである。
ドイツ橋
▲ 11ヵ所造られた橋のうちで最後に建造されたものがこの現存する
「ドイツ橋」である。建造に対する労賃は支払われなかったが、俘虜
たちにとっては「創造の喜びと働く意欲」こそが最大の報酬であったという。

慰霊碑
▲ 大正8年、俘虜たちの手によって建てられた慰霊碑(奥)と昭和51年に建てられた合同慰霊碑(手前)。
ドイツ館
▲ 平成5年に完成した「ドイツ館」。館内には
  ドイツ俘虜に関する資料が展示されている。
----備考----
訪問年月日 2004年8月10日
主要参考資料 「どこにいようと、そこがドイツだ」他

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