松山城
(まつやまじょう)

国指定史跡、百名城

              愛媛県松山市丸之内        


▲ 安政元年(1854)に復興された三層三階の天守閣。
国内現存天守12城のなかでは最も新しい天守閣である。

二十万石には
       過ぎたる城

 松山城の築城者である加藤嘉明が伊予半国二十万石の大名となったのが慶長五年(1600)の関ヶ原合戦の戦功によってであった。

 当時、嘉明は十万石の領主として松前(まさき)城(伊予郡松前町)を居城としていた。それが二十万石に加増されたのであるから、それに相応しい城を、ということで築城の許可を徳川家に申し出たのが、松山築城のはじまりである。

 城地は道後平野の中心、勝山と決め、慶長七年(1602)一月に工事が開始された。普請には足立半右衛門重信と山本八兵衛があたった。無論、嘉明自らも現場に立ち、夫人のお萬の方も女中衆に混じって握り飯を人夫に配ったという。まさに殿様以下領民総出の大工事であった。

 こんな話が伝えられている。瓦を山上に運ぶために麓から山頂まで領民を並ばせ、手渡しで全ての瓦を一夜にして運搬し終えたというのである。

 翌慶長八年、嘉明は松前城を引払ってその居を松山に移した。松山という地名もこの時に名付けられた。城の建設と同時に城下町の建設も進められ、松前や道後の商人たちの松山移住もはじまった。まさに領内挙げての城造り、街づくりであった。

 嘉明の松山における治世は寛永四年(1627)までであるが、その間二十五年、工事は絶えることなく続いた。本丸本壇にそびえる五層六階の天守閣とそれを取り巻く数多くの櫓や門の構築は伊予半国の領主の居城にしては壮大に過ぎると思えなくもない。この年に嘉明は会津へ転封となるが、これは松山城の威容を知った幕府が嘉明に四国制覇の野望ありと疑った結果であるとも云われているほどである。

 無論、徳川家によって固められた天下にあって嘉明が単独で兵を挙げることなどできるはずもない。ただ、伊予を分け合う藤堂高虎にだけは負けたくなかったであろうことは云えようか。

 嘉明と藤堂高虎の仲の悪さは唐島(巨済島)沖の戦い(慶長の役)の戦功争い以来、世間周知のものとなっていた。この戦いは豊臣秀吉の二度目の朝鮮出兵、つまり慶長の役の初戦ともいうべき海戦で、藤堂高虎率いる水軍が朝鮮水軍を奇襲して大戦果を上げ、これに続いて脇坂安治や加藤嘉明らが加わって朝鮮水軍を壊滅させた戦いである。この日の戦いが終わり、諸将が会して高虎を戦功第一と称えた。ところが嘉明は、自分が戦功第一であると主張したのである。
「不意を襲って上げた戦果など功にあたらぬ」
 ということなのであろう。

 嘉明は秀吉一途に仕えてきた武将であったが、高虎は使える主人を転々としてきた武将である。そんなことからも肌が合わなかったともいえる。また築城家としても名高い高虎であったが、この松山城を見ていると嘉明が城造りにおいても負けじとした気迫が伝わってくる。

 寛永四年(1627)、嘉明が心血を注いだ松山城もほぼ完成となったこの年、会津四十二万石への転封が命ぜられた。倍以上の加増であるから大栄転である。

 しかし嘉明はこの城を手放すのにしのびなかったのであろうか、一時はこれを断ったと言われている。もともと会津移封のはなしは高虎にあったのだが、高虎は老齢を理由に辞退していた。この時、高虎は代わりに嘉明を推挙したのである。このはなしは私怨を捨て公事を優先した高虎の美談として伝えられているが、いかがなものであろうか。嘉明とて老齢であったのだ。

 嘉明の去った松山城に入ったのは蒲生忠知(ただちか)である。忠知の祖父は氏郷で会津九十万石の太守であった。会津蒲生家は氏郷の後、秀行、忠郷と続いたが嗣子なく断絶した。加藤嘉明はその後を受けて会津に移ったのである。そして忠郷の弟で出羽上ノ山城四万石にいた忠知が蒲生家を継いで伊予松山二十万石となったのである。

 しかし、忠知の治世は七年で終わった。寛永十一年(1634)三十歳で病没してしまったのである。忠知に嗣子なく、蒲生家は断絶、完全に絶えてしまった。

 寛永十二年(1635)、松平定行が松山十五万石の藩主として入封されてきた。定行は家康の異父弟定勝の次男である。この家系は久松松平家と呼ばれ、松山藩は親藩に列せられている。

  寛永十六年(1639)、定行は五層の天守を三層に改築する工事をはじめた。地盤が脆く、倒壊のおそれがあったためと云われている。また、幕府に遠慮して低くしたとも云われている。

 天明四年(1784)、天守に落雷、炎上焼失してしまった。松平九代藩主定国は復興すべく直ちに幕府の許可を得た。ところが飢饉や財政難、また藩主の交代などが続き、着工したのは実に63年後の弘化四年(1847)松平十二代勝善の時であった。

 翌嘉永元年(1848)八月、着工。安政元年(1854)二月、天守再興落成式が行われ、70年ぶりに天守が復活した。幕府崩壊の十四年前のことである。現在、目にする天守はこの時に再興されたものである。

 幕末期、松山藩は親藩ということもあって二度の長州征伐にも参戦、その後も佐幕路線で行かざるを得なかった。そのため、戊辰戦役では朝敵とみなされ追討令が出された。時の藩主松平十四代定昭は藩内の恭順論を受け入れ、朝廷に謝罪、松山城を出て謹慎の態度を示した。

 その後、松山は土佐藩の占領下に置かれたが、慶応四年(1868)五月、十五万両を軍費として新政府に納めることで許された。

 明治二年(1869)二月、版籍奉還により久松松平十五代におよぶ藩政は終わりを告げた。

▲ 天守閣から眺めた本丸と松山市街。当初、勝山の山頂は二つに分
かれていたのであるが、その間を造成して平らにし、本丸としたのである。


▲ 城山の東側登城口である東雲口から登ると、最初に目に入るのがこの「巽櫓」である。

▲ 「太鼓櫓」。本丸広場の南端に位置し、本丸内に突入しようと駆け登ってきた敵を阻止する。

▲ 内側から見た「筒井門」。松前城からの移築門である。

▲ 本丸本壇に突入しようとする敵兵は正面「筋鉄門東塀」と右の「一ノ門南櫓」および左の「小天守」から一斉掃射を浴びることになる。

▲ 天守の東北に位置する「天神櫓」。鬼門にあたるため、久松松平家の祖とされる菅原道真が祀られている。

▲ 「紫竹門」。搦手に通じる門である。開いた門の向こう側に緑色の竹の植え込みが見えるが、これが紫竹である。

▲ 本丸西側の登城口である黒門口の登城道。この道は本丸と二之丸を結んでいる。

▲ 二之丸跡に御殿の間取りが再現された「二之丸史跡庭園」。二之丸邸は藩主の居館として蒲生忠知の時代に完成した。貞享四年(1687)、松平四代定直によって三之丸御殿が完成した後は世継ぎの方の屋敷などに使われた。

▲ 二之丸の大井戸遺構。深さは9m、東(画像左側)半分は建物がせり出していたとされている。主に防火用水のために備えられていたということである。
----備考----
訪問年月日 2008年1月
主要参考資料 「日本城郭総覧」他

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