徳島城
(とくしまじょう)

                   徳島県徳島市徳島町城内         


▲ 徳島城の西二の丸から本丸に至る石段と本丸の石垣。石段正面が本丸の
石垣で石段右側の石垣は弓櫓跡である。山麓の御殿部分の石垣は近世城郭
的で整っているが、城山部分の石垣からはまだ戦国的な雰囲気が伝わってくる。

地の利を頼まず、
      人の和を頼むべし

 天正十三年(1585)六月、豊臣秀吉による四国征伐が開始され、阿波方面では羽柴秀長、秀次の軍勢約六万が淡路から土佐泊(鳴門市)に上陸、長宗我部方の諸城を攻略した。
 戦後、この戦いに参陣していた蜂須賀正勝は秀吉から阿波一国を与えられたが、高齢を理由に嗣子家政に譲って隠居した。
 十七万五千石の太守となった家政はまず一宮城(徳島市一宮町)に入り、国内の仕置きに着手した。同時に一国統治に相応しい新城地の選定にも着手した。
 一宮城は要害堅固な山城で土豪の反乱を考慮すれば防御に優れた城であったには違いない。しかし家政は吉野川河口部の平地に城地を求めようとした。このとき重臣の武市信昆(のぶよし)が、
「平地では一旦事が起こった場合に甚だ不利でござる」
 と諌めたと云われている。
 家政は笑いながら、
「今より百年後、世は泰平となり、武備の要もなくなる。地の利を頼むより、むしろ人の和を頼むにしかず」
 と武市を諭したという。
 陸海の交通の要所に城を築き、人々が多く集まる城下町を造る。一国の主が山奥に引っ込んでいては国は繁盛しないのだ。これは信長、秀吉と受け継がれてきた治国の姿でもあるのだ。
 というわけで新城地は助任川と寺島川に挟まれた中州に決定された。ここには渭山(いのやま)と呼ぶ60mほどの山があり、古くから山城が築かれていた。その山麓にも寺島城と呼ぶ平城があった。工事はこの二つの城域を含めた平山城の形で進められた。
 縄張は家政に諭された武市信昆と、家中でも築城家として著名な林道感があたった。また工事には秀吉の命で小早川隆景、長宗我部元親らが手伝い、六百日と日を限った突貫工事であった。
 翌天正十四年(1586)、家政は一宮城から新城に移った。はじめ渭山城と呼んでいたが、地名が徳島と変わったのは延宝六年(1678)のことといわれている。
 慶長五年(1600)の関ヶ原合戦時、家政は出家して領地を豊臣家に返納したために一時的に大坂方の支配下になったが、嗣子至鎮が東軍徳川方に参陣したことで所領は安堵された。同時に家政は隠居して至鎮が当主となり、徳川幕藩体制下における初代藩主となった。
 慶長二十年(1615)、大坂の陣に活躍した功により淡路一国が加増されて二十五万七千石の大藩となった。

▲ 大手門枡形の石垣。
 その後、蜂須賀氏が十四代続いて明治となった。
 明治二年(1869)、版籍奉還により廃城となり、明治八年(1875)には「鷲の門」以外の全ての建築物が取り壊されて石垣と堀を残すのみとなった。
 唯一残されていた鷲の門も昭和二十年(1945)七月の空襲で焼失してしまったが、平成元年(1989)に復元されて訪れる人々を迎え入れてくれている。
 ▲ 城山南麓御殿部分東側の堀と石垣。堀に架かる橋は「数寄屋橋」である。
▲ 御殿東側の石垣。徳島城の石垣は阿波産の「青石」によって築かれている。

▲ 大手口の南側の三木曲輪に大手一の門として設けられていた「鷲の門」。

▲ 大手枡形門跡。

▲ 城山に登るには東西二方向から登ることができる。この石段は東側の登り口である。

▲ 東二の丸跡。三層三重の天守が建っていた。

▲ 城山山頂の本丸跡。かつてはここに藩主専用部屋をもつ御座敷、城山定番の詰所である御留守番所やいくつかの櫓が建っていた。

▲ 石段正面が西二の丸の石垣、左が張櫓の石垣。

▲ 藩祖・蜂須賀家政公の像。
----備考----
画像の撮影時期*2010/01

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