「白布の武将 大谷吉継」 作・ 管理人


六章、 家康来る 

 山中村に陣取った吉隆は、布陣のその日から関ケ原の地形とその周囲の山々の状況を把握することに余念がなかった。
 盲目に近い吉隆は常に湯浅五介を伴って歩き、五介の目を介して自分の脳裏に関ケ原の地理を描いた。そして対陣が長期に及ぶことも考慮して、大垣城主で城を三成らに明け渡した伊藤彦兵衛盛正に松尾山の古城跡を修復させている。
 その吉隆に三成は、依然として佐和山城南の高宮に陣したまま動く気配のない小早川勢に関ケ原への移動を促すため、督促の使者を派遣するように要請した。
 その使者として吉隆は平塚為広と北国戦線から吉隆と行動を共にしてきた戸田重政を小早川秀秋のもとへ派遣した。
 この二人の応対には小早川重臣の稲葉正成があたり、秀秋は仮病と称して会おうとしなかった。
 「主君の容体が快復いたせば即刻、関ケ原に見参つかまつる所存でござれば、今しばらくの猶予をたまわりたいと治部少輔殿、刑部少輔殿にお伝えくだされ」
 平塚、戸田の両人は秀秋の反意が明らかとなれば、その場で刺し違えるつもりで来たのであったが、重臣の稲葉正成が関ケ原進出を確約したので仕方なく引き上げることにした。
 その小早川勢が動き出したのが十三日で、その日は美濃境近くの柏原村に宿営した。
 大垣城に戻ってからの三成はじっとしてはいない。南宮山に布陣した毛利、吉川、長宗我部、安国寺、長束の各陣所を回って伊勢平定の労をねぎらうとともに当地における決戦に備えての意見を聞いた。

 二ヵ月前、佐和山城で挙兵の密談をして以来、三成と別々に行動してきた安国寺恵瓊は南宮山北麓に布陣した吉川広家を牽制するようにその西隣の南宮社に布陣していた。
 恵瓊と広家は毛利輝元の出馬をめぐって激論、並行線のまま今日に至っている。表向きは西軍内で行動しているが、それが広家の本意でないことは分かっている。伊勢の戦線においても恵瓊は常に広家の行動に注意を払ってきたが、この頃には歳のせいもあってか、かなり疲労の色が濃くなっていた。
 「治部少輔殿、わしは疲れた。東奔西走した若き日のようには、もう身体がついて行かぬ。あとは若い者に任せるゆえ、存分におやりなされ」
 恵瓊は力なく言った。
 三成は恵瓊の戦意が萎えていることに驚いた。
 「恵瓊殿、内府は必ずここへ出て来る。雌雄を決するのはこれからでござるぞ。そのような弱気て゜は」
 と三成は声を励ましたが、背を丸めてうなだれた老人を前にしてそれ以上のことは言えなかった。しかし、この一戦に負けるわけにはいかないのだ。
 「それにしても中国衆を南宮山上に陣取らせたのは合点がいかぬ。あのような難所ではいざという時に動くことが困難ゆえ、下りるように進言してもらいたい」
 中国衆とは毛利秀元の軍勢一万六千のことである。
 恵瓊は三成を上目遣いに見た。
 「それが吉川のねらいよ」
 三成は愕然とした。
 吉川広家と恵瓊の輝元出馬をめぐっての意見の対立があったことは知っていたが、それがここにきて大きな障害になろうとは予想外であった。
 「吉川の関東への参陣だけは刺し違えても押さえる覚悟じゃ」
 と恵瓊は言ったが、もはや南宮山上の毛利勢はあてにできぬと見なければならない。
 三成は南宮山上にはためく一文字三星紋の軍旗を見上げて、しばらく茫然と立ち尽くしていた。

 一方、東軍は八月二十三日に黒田長政、藤堂高虎、田中吉政らが赤坂に陣取って以来、この付近には続々と岐阜城攻略を終えた諸軍勢が集結を続けていた。
 松平忠吉、織田有楽、井伊直政、筒井定次、加藤嘉明、福島正則、池田輝政、本多忠勝、金森長近、細川忠興、山内一豊、浅野幸長、生駒一正、有馬豊氏など東海道を駆け上ったすべての軍勢が布陣を終えると、総勢五万五千余に達していた。
 あとは家康以下旗本勢三万の到着と中山道を進む徳川秀忠以下三万八千の合流を待つだけである。
 この赤坂の南に岡山という小高い丘がある。ここに家康を迎えるため、東軍諸軍勢は岡山を取り囲むようにして赤坂、昼飯、牧野、長松の各村に陣取り、三成ら西軍三万が拠る大垣城に向かって対した。
 その家康が江戸を発したのが九月一日、悠然と東海道を西上して十三日、岐阜城に入った。

 この前夜、三成は大垣城で宇喜多秀家、小西行長、島津義弘を交えて軍議を開き、対陣長期化に備えての戦術を話し合っているが、この時点ではまだ家康の動きに関する情報は報告されていない。
 それは三成の発する書状のことごとくが徳川の諜者らによって阻止、押収され、その内容が筒抜けになっているのに比べて三成側の諜報活動の甘さを物語っている。
 十四日、大垣城のはるか北方の軽海村付近から揖斐川の西岸神戸村にかけて大勢の軍兵が渡河移動しているのを三成が知ったのは、城内の物見の報告によってであった。徳川勢三万の突然の出現に大垣城内が騒然となったことは言うまでもない。
 正午ちかくに徳川勢は用意された岡山の陣地に到着して、そこに白旗十二旈、葵紋旗七旈と家康の存在を示す金色に輝く開扇の馬標が掲げられた。
 徳川勢三万の出現によって劣勢の色濃くなった大垣城では、ただちに軍議が開かれ、家康本人の到着なのか、その実否を確かめるために一隊を岡山近くまで進出させることが決まった。
 威力偵察というものである。これには三成の重臣島左近勝猛が一隊を率いて進出することになり、宇喜多秀家の家臣明石掃部、長船吉兵衛ら兵八百がこれを支援することになった。
 島左近は兵五百を率いて城の北西半里、杭瀬川東岸の笠木村に伏兵を忍ばせ、そこから少し上流で川を渡った。
 そこは家康本陣の岡山から九町ほどの地点で、この付近一帯には駿河府中十四万五千石の中村一忠が、さる七月十日に没した父一氏の名代として四千余を率いて布陣していた。中村勢の実質的な指揮は、一忠が十一歳の少年であるため、伯父の中村一栄が後見役として采配を振っている。さらにその西隣には遠江横須賀三万石の有馬豊氏が兵九百で布陣している。いずれも豊臣譜代の大名である。
 中村勢の侍大将一色頼母は島左近隊が大胆にも目前で渡河、稲を刈るなどの挑発行為を見せたので、一隊を率いて出撃し、この排除に向かった。
 島左近は岡山の陣が家康の本陣となっていることを確認すると、一色頼母の一隊を誘い込むように南に向かって駆け、大垣城の西方、木戸村のあたりで杭瀬川を渡った。一色頼母は敵の首の一つくらいは取らねばと、深追いを忘れて島左近隊を追いかけた。島左近は笠木村の伏兵に一色頼母隊の背後を襲わせると、引き返して挟撃、頼母以下三十余人全員を討ち取った。
 一色頼母隊の追撃戦を望見していた有馬豊氏は隣の中村勢に手柄を独り占めされてはと、これまた一隊を南進させた。だが、頼母隊の全滅を知って引き返そうとしたその時、福田畷で宇喜多家臣の明石掃部率いる一隊に捕捉され苦戦に陥ってしまった。
 この一部始終を岡山の陣から眺めていた家康は次第に不機嫌となり、
 「平八っ、何とかしてこいやい」
 と浜松城主時代の長かったためか、遠州なまりで本多平八郎忠勝に事態の収拾を命じ、以後敵の挑発にのって兵を損じることのないように諸将を戒めた。
 島左近は本多忠勝勢の出現を機に、無用な戦闘の拡大を避けるようにして大垣城へ引き上げた。
 そして三成は城内の士気を鼓舞するために島左近らのもたらした敵将の首実検を城下遮那院の門前で行った。

 家康の到着を島左近の威力偵察によって確認した三成は軍議を開いた。
 宇喜多秀家や島津豊久は南宮山の毛利勢と呼応して夜襲することを力説した。その後は大坂からの後詰めを待って籠城すべきという。
 大坂からの援軍、南宮山の毛利勢、これがあてにならぬことを三成は大声で叫びたかったが、口には出せない。それは、西軍の崩壊を三成みずからが認めることになるからである。
 一通り諸将の意見が出そろい、夜襲決行後に籠城という案に落ち着いた。
 「大勢の意は聞いてのとおり」
 総大将格の宇喜多秀家が、終始黙考している三成に意見を求めた。
 「夜襲、籠城ともに賛同いたしかねる」
 三成は言下に否定した。同時に居並ぶ諸将の表情が険しくなった。
 なかでも島津豊久は三成の独断撤退によって墨俣村に取り残され、全滅の危機に瀕した経緯もあって、噛みつかんばかりの形相であった。
 しかし、そうした雰囲気に動じることなく三成は決然として言った。
 「敵の総大将を目前にして白昼堂々の一戦を交えることもなく、籠城とは現状を顧みぬ無責任な方策ではござらぬか。籠城となれば、三万の兵を養う兵糧は如何するつもりでござるか。先月以来、兵糧の補給は近江のわが領内から連日運ばせているが、それも無尽蔵ではない。しかも、完全に包囲されれば城外からの補給は途絶えることになる」
 島津豊久がたまりかねて、
 「無策とは聞き捨てにならぬ。われらが申しておっとは大坂の毛利が出っ来るのを待ってから雌雄を決すればよかというこっじゃ。そいとも、治部殿には別に必勝の策があっとな」
 と三成に食って掛かったが、三成は動じる風もない。
 「速戦即決を最上の策と心得る。今夜、城を出て関ケ原に移動、慌てて追いかけてくる敵を地の利を活かして待ち受ける」
 三成は関ケ原の地図を開いて西軍各部将の布陣先と東軍の予想される進路を説明した。
 それは誰の目にも西軍の布陣は勝利を導くものに思えた。三成の説明通りに事が運ぶならば勝利は疑いなしとも思われた。
 「そのために、早くより大谷刑部殿には関ケ原に出て要地を確保してもらっている」
 その大谷陣から折よく、小早川秀秋率いる一万五千が関ケ原の松尾山砦に布陣したとの報せが届けられ、三成の関ケ原決戦策を後押しするものとなった。
 宇喜多秀家は三成の策に心を動かされた。
 「治部少輔殿、それでいこう。小西殿も島津殿もこれならば異存はあるまい」
 島津豊久と義弘は無言である。小西行長は小さく頷いた。

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