「白布の武将 大谷吉継」 作・ 管理人


八章、 決戦 

 この頃、徐々にあたりは白み始めたが霧は濃く、関ケ原の景色を閉ざしていた。
 吉隆は平塚為広、戸田重政とともに関の藤川岸の陣所で笹尾山の三成本陣から次々と届けられてくる情報を受けていた。
 戸田重政はその報告に膝を打って喜んだ。
 「予期したこととはいえ内府がこうも易々と我らが思惑通りに乗ってくるとは思わなんだわ」
 「それよ、神仏の加護は我らにありじゃ。それにしても内府にしてはちと短慮ではあるまいか」
 平塚為広は家康の行動の裏に何か隠されたものがあるのではないかと気になった。
 吉隆はこの最も信頼できる二人の武将に部下としてではなく朋友として対等に接している。
 「いかにも平塚殿の懸念はもっともだ。内府は凋落の名手、我らの及ぶところではない。その成果をあてにしてのことであろう。ことに小早川など未だに腰が据わっておらぬ。裏から徳川の手が回っておることは明白。わしは万が一の場合に備える覚悟だ」
 為広、重政ともに吉隆の白布に被われた顔を凝視した。
 二人は数日前、佐和山城下を動こうとしなかった小早川秀秋の真意をただすために派遣されており、小早川勢の不審な行動は知っていた。
 「あの男の帰趨によって戦局は大きく変わることになろうが、それにもまして内府を駆り立てておるのは加藤、黒田、福島らの気変わりだ。内府はこれを最も恐れておる。もとをただせば皆太閤様子飼いの面々だからの」
 吉隆は敵軍が充満しているであろう霧の彼方へ顔を向けた。
 「気の変わらぬうちに決戦に臨まねばおのれの首が危うくなるというわけか。我らのいくさぶりで福島らの目を覚ませてくれようぞ。のう、平塚殿」
 戸田重政はこの関ケ原で天下を二分する大戦に臨めることを武将の本懐として、越前の戦線以来、吉隆に従ってきたことを悔いてなかった。
 「おうさ、わしとてこの命この日のため、とっくに御仏に返上しておるわ」
 平塚為広もその大きな体躯をゆすって喜びをあらわした。
 垂井の館で吉隆から家康討伐の秘事を知らされた夏の日以来、大坂に出陣、伏見城攻めに参加、佐和山で再び吉隆に合流して関ケ原へと忙しく働いてきた為広である。

 辰の刻、陽が高くなるにしたがって霧が晴れ、急にあたりの視界が開けると同時に南天満山の方角から猛烈な銃撃音が関ケ原一帯に轟いた。
 軍監本多忠勝に開戦を促された井伊直政と松平忠吉の軍勢の前進に触発された福島正則勢が先陣の功を競って宇喜多勢に突撃を開始したのである。
 平塚為広と戸田重政は反射的に太刀を手にして立ち上がり、
 「今日までのご厚誼の数々、かたじけのうござった。これにてご免っ」
 と為広が駆け出せば、
 「北国にてめぐり合いしはこの日を迎えんがための縁、武士として悔いなし。いざ、さらばでござる」
 重政も吉隆に一礼して自陣へ駆け戻った。
 茫とした視界を通して二人の去るのを頷いて見送った吉隆も直卒の兵を固めて東軍の来襲に備えた。
 病のため吉隆は甲冑を着用していない。違い鷹羽紋を鮮やかに染め抜いた白布を大きくまとっているほかは唯一の防具として頬楯を頭部を覆う白布の上から顎部に装着している。これが朱塗りでできているため異様に凄みを増していた。

 後日、天下分け目の戦いと呼ばれることになる合戦の火蓋が福島勢と宇喜多勢の銃撃戦によって切られると、東軍最右翼に布陣する黒田長政は開戦を告げる狼煙を丸山に上げ、三成本陣の笹尾山めがけて進撃を開始した。
 これに続いて東軍の全戦線において喊声が湧き起こり、地響きとともに全軍が一個の生き物と化して西軍の陣地に向かって動き始めた。
 三成も宇喜多陣の方角で起きた銃撃戦によって戦闘開始の狼煙を上げた。笹尾山前方に布陣していた島左近はいち早く迫りつつある黒田勢に向かって自ら打ち掛かり、これをみた細川、加藤、田中勢が黒田勢を援けて島勢に襲い掛かった。
 島勢と並んで布陣していた蒲生郷舎率いる軍勢も島勢を援けるため細川、加藤勢に向かって突進し、はやくも両軍入り乱れての激闘となった。
 東軍第一陣のうち福島勢が宇喜多勢に襲い掛かり、他の黒田、細川、加藤、田中の各軍勢は皆三成陣の笹尾山攻撃に集中するなか、福島勢の先駆けを許してしまった第二陣の井伊、松平勢は島津陣と小西陣の正面に出た。
 松平忠吉勢は小西行長陣へ襲い掛かり、井伊直政勢は北国街道を扼して布陣する島津勢めがけて殺到した。赤備えで統一された井伊勢の突撃は全軍が赤い槍そのものとなった。
 大谷陣の前衛として布陣する平塚、戸田勢は横目に宇喜多、福島勢の激闘を見ながら不破関跡付近に前進して東軍第二陣の来襲に備えた。
 東軍福島勢の背後に控えていた第二陣の京極、藤堂勢五千五百は福島勢の戦闘開始とともに前進を開始、不破関跡に平塚、戸田勢を認めると鉄砲隊に一斉射を命じ、怒涛の如くこれに襲い掛かった。
 平塚、戸田勢は千五百であったがその勢いは京極、藤堂勢をはるかに凌ぎ、数波に渡る攻撃をその都度はね返し、逆に東軍勢を後退させる勢いであった。
 その隣で激戦を続けていた宇喜多勢と福島勢の戦闘も宇喜多家重臣明石全登の奮迅の活躍で福島勢を大きく後退させている。
 小西、島津の陣前における戦闘も熾烈を極めていたが、井伊、松平勢の攻撃をその都度撃退して意気盛んである。

 たちまちにしてわずか半里四方に満たぬ関ケ原の地は駆け抜ける兵士と軍馬の蹄によって掘り返され、空は砂塵と硝煙が陽光を遮り、その大気は両軍勢の喊声で震撼した。
 当然のこととして戦場と化した田畑は踏み荒らされ、人家は放火、撤去され、住人は追い払われて山野に野宿を余儀なくされてしまっている。石器の昔からこの関ケ原を経て二十世紀に至るまで、戦争は常に庶民の存在を無視し、その犠牲を顧みようとしない。

 全般に各戦況は迎え撃つ西軍優勢のうちに推移していた。
 桃配山に本陣を進めた家康は開戦して一刻ほどたっても勝利を予想させるような報告が入ってこないのに苛立っていた。
 「こんなところでは何も見えぬで、前え出て三河武士のいくさを見せるかえ」
 と関ケ原の中央部にまで本陣を進めて、味方の督戦に乗り出した。
 家康は桶狭間の合戦で今川の部将として初陣を飾って以来、数えきれぬほどの戦場を踏んできた百戦錬磨の闘将である。いくさの駆け引きにかけては、この時期に家康の右に出るものはいない。
 家康とその旗本勢が硝煙立ち込める前線に乗り出してきたのを見て驚いたのは西軍ではなく東軍の第一陣で先鋒の任を引き受けていた黒田、細川、加藤、筒井、田中、福島の秀吉子飼いの面々であった。三成個人に対する憎悪から東軍の急先鋒となってきた彼らである。
 「これは我らのいくさじゃ。三河者に手出しさすな。者共っ、一息に敵を揉み潰せいっ」
 と攻撃に拍車がかかったことは言うまでもない。
 家康本陣の進出に勢い付いた東軍の攻撃は熾烈さを増した。
 各戦線で最も激烈な戦場と化している三成の陣前では島左近、蒲生郷舎らの奮迅の働きでよく持ち堪えていたが、次々と新手を繰り出してくる東軍勢を相手にして次第に疲労の色が濃くなってきた。
 三成は未だに動く気配のない松尾山と南宮山をにらんだ。
 「狼煙を上げいっ」
 南宮山の連中はあてにならないが、松尾山の小早川勢だけでも東軍の横腹に突っ込ませれば勝てる。しかし、これ以上戦闘が長引けば石田陣そのものが危うくなる。宇喜多、小西、大谷勢が善戦しているとはいえ、関ケ原に展開した東軍の大部分が三成の陣前に殺到しているのだから、焦らざるをえない。

 吉隆の陣では湯浅五介が吉隆の目となって戦況を逐一報告していた。
 「平塚殿、戸田殿ともに京極、藤堂勢を押し返して蹴散らしておりまする」
 吉隆は五介の報告によって戦況を把握し、それによって指示を発していた。
 「深追いをさけ、守りを固めるべし」
 吉隆は常に松尾山の小早川勢の動きを警戒して、その配慮を怠らないでいた。
 「石田陣の状況は」
 吉隆は笹尾山に駆け付けて、苦戦中の三成を援けたかったが、小早川の去就を見届けるまでは動けないのだ。大軍を一手に引き受けている三成の健闘を祈るしかない。
 「笹尾山に狼煙っ」
 松尾山と南宮山の味方に出戦を促す合図である。
 五介の報告に吉隆は三成の苦戦を思いやるとともに、
 「小早川勢の動きに油断せぬよう吉勝、頼継に伝えよ」
 と山中村に陣する二人の息子らに松尾山に対する警戒を促した。

 午の刻ちかく、笹尾山正面の戦闘は凄惨を極めていた。島左近の負傷後退を機に前衛が崩れ、戦闘は三成本陣前の二重の柵を挟んでの攻防となっていた。
 三成は焦った。南宮山、松尾山の軍勢は動く気配がない。小西、宇喜多、大谷勢が善戦しているとはいえ、いずれも正面の敵を相手にするのが手一杯の状況で石田陣への救援にまでは手が回らない。石田陣はこの大合戦の一方の本営である。このままでは本営そのものが潰されてしまう。
 そうした中、島津勢のみが積極的に前へ出ることもなく堅く陣を守っていた。
 この消極性に三成は腹が立った。
 「我らがこれほど必死に戦っておるに、対岸の火事と決め込んでおるのは許せぬ。馬を引けいっ」
 三成は自ら馬を駆って島津陣へ向かった。
 しかし、島津義弘、豊久の態度は三成に冷たかった。
 「苦戦しちょっとは我らも同いでごわす」
 豊久は三成を見ずに戦場の方をにらんだまま応えた。
 開戦劈頭より自軍に倍する井伊勢の猛撃に耐えてきた島津勢も半数に減っていた。
 「見ての通り、他家のことなどにかもうちょいゆとりはなか」
 豊久はゆっくりと三成を見返し、
 「じゃっどん援けはいりもはん。島津は島津でやいもす」
 と言うと再び視線を前方の戦場に戻した。
 三成は言葉もなかった。
 「われらは一度見捨てられた軍でごわす。治部少どんもこげなとこへ来とる暇はなかじゃろ」
 三成の独断撤退によって墨俣村に孤立させられたことを豊久は根に持っていたのである。
 三成は人情の機微に疎い自分に初めて気が付く思いがして、悄然と馬首を返した。

 この頃、関の藤川を越えた東軍の一隊によって傍観を決め込んでいる松尾山の小早川勢に向かって一斉に鉄砲が撃ち込まれた。
 焦りを感じていたのは三成だけではなく、家康も同じであった。一進一退を続ける戦況を優勢に転換するためには小早川勢の内応が必要だったのである。
 この銃撃によって小早川秀秋は老父に尻を叩かれる思いで軍配を振った。
 「大谷陣へ」
 家康にたいする恐れからか秀秋の声音は震えていた。
 突如として松尾山に上がった喊声は大谷勢に向かって雪崩れのごとく駆け下った。
 「金吾め、内府に加担するか」
 吉隆は軍配を手に立ち上がり、
 「五介っ、板輿じゃっ。裏切者を一人残らず討ち取るのじゃ」
 と板輿に乗り移るとすさまじい勢いで小早川勢の全面に進んだ。
 吉隆以下六百の兵は、真っ先に駆け下ってきた小早川の一隊を瞬く間に斬り崩し、その勢いは後続の小早川勢を大混乱に陥れた。
 坂道を駆け下る小早川の兵らはその歩を制御することができず、勢い余って山下に出た者は一人残らず大谷勢の餌食となり、かろうじてその歩を山中に留めえた者も後続の味方に踏みつぶされるなどして混乱を極めた。
 小早川の寝返りと松尾山下の激闘を見た平塚、戸田の両人も正面の敵京極、藤堂勢との戦闘を捨てて吉隆加勢のために松尾山下に駆け付けて来た。
 「それにしても赤座、小川、脇坂、朽木の戦いぶりは気に入らぬ。彼奴らも寝返りを思案しておるのではないか」
 戸田重政は藤堂勢を一手に引き受けて関ケ原中央部にまで後退させるほどの戦闘を展開してきていたが、藤下台に布陣する脇坂らの行動に戦意のないことが気になっていた。
 その危惧が現実のものとなったのはそれからすぐであった。脇坂勢の寝返りを機に赤座、小川、朽木の各軍勢がそろってこちらに向かってきたのである。
 「おのれっ、恥をわきまえぬ者どもかな」
 戸田重政は愛馬に一鞭くれると手勢の先頭に立って寝返り組めがけて突撃して行った。
 平塚為広は重政より一足早く松尾山下に到着して小早川勢の一隊と死闘を演じている。馬上から振るう為広の豪刀は駆け寄る敵兵の首筋を間違うことなくとらえ、一振りこどに敵兵を地表に叩き伏していた。
 「この兜首を刑部殿の陣へ届けてくれい」
 為広は吉隆のもとへ兜首ふたつを送った。
 平塚勢の攻勢はすさまじく、山の中腹まで敵を追い上げ、秀秋の旗本隊をも突き崩さんばかりの勢いである。
 山中村の吉勝、頼継兄弟の正面にも小早川勢が殺到して激しい殺戮戦がはじまった。この戦闘では家康の目付として小早川陣に派遣されていた奥平貞治をはじめ多くの小早川の兵が犠牲となってその進撃が阻まれている。
 しかし、大谷、平塚、戸田の奮戦も長く続くものではなかった。正面から五倍の敵を相手にしているのである。時間の経過とともに劣勢は加速度的に増してくる。
 そこへ陣容を立て直した藤堂、京極勢が横合いから銃撃とともにその硝煙をくぐって突っ込んできた。これを機に小早川勢も陣容を立て直して攻勢に転じた。
 吉隆の率いる兵も次々と倒れ、攻勢から守勢に転じ、次第に押され始めた。
 両軍の喊声の真っ只中に板輿を乗り出して指揮を執っていた吉隆も、死を恐れぬ味方の奮戦に満足して、徐々に後方の森の中へ後退した。
 板輿のわきで吉隆の目となって声をからしながら戦況を絶え間なく伝えていた五介の声が瞬時途切れた。
 「いかがした、五介っ」
 吉隆はついに五介も銃弾に倒れたかと早合点したが、
 「平塚様、戸田様ともに討ち死にせし由にござりまする」
 と五介の無念に耐えぬ声涙が返ってきた。
 吉隆の脳裏をこのふた月の間、甲冑を解く間もなく戦陣を往来してきた二人の姿が走馬灯のごとくよぎった。
 「五介よ、わしもそろそろいくか」
 吉隆は板輿を山中深く後退させることを命じた。
 途中、
 「久八郎っ、これへ」
 嫡男吉勝とは乳兄弟で、伝令として双方の陣を往復していた橋本久八郎を呼んだ。
 「吉勝、頼継に伝えよ。敦賀に戻り、母をまもりて落ち延びるべし。死に急ぐでないと」
 久八郎はすでに馬をなくし徒立ちで槍を振るい、板輿に近ずく敵兵を付き伏せて奮戦していた。
 「殿っ・・・」
 久八郎はこれが吉隆の最後の指令であると覚ると、返り血と戦塵にまみれた顔で吉隆のまとう白布をつかんで泣き伏した。
 「はよう行け」
 腕で涙を払いながら駆け去る久八郎の後ろ姿を茫とした視界を通して追う吉隆の目にも涙が光っていた。

 敵の追撃が緩んだ隙に五介は、最後まで板輿を守って十数人にまで減った仲間を集めるとそれぞれ落ち延びるようにとの吉隆の意を伝えた。
 しかしこの十数人は落ち延びることを潔しとせず、主君の最期を守るべく間近に迫った藤堂勢の一隊めがけて斬り込んでいった。
 吉隆は森の中に降ろされた板輿に胡座したまま頭部を包む白布を外し、腹を出した。
 「わが首を敵に渡すべからず」
 言い終えるや脇差を腹にたて、一気に十文字にかっさばき、同時に五介の太刀が吉隆の首と胴を別のものにした。
 五介は吉隆の首を白布で包むと、藤堂勢の追撃をかわしてさらに山中深く駆け込み、急いで地中に埋め隠した。
 「その首級、大谷刑部とみた」
 びくりと五介は振り向きざま槍を振ったが、穂先は空を斬り、地表の小石を跳ねた。かわりに声をかけた武士が素早く槍を繰り出してきた。
 五介は疲労の極限にあって不覚にも振った槍の遠心に身体の平衡をくずしてよろけてしまい、その武士の突き出した槍を大腿にまともに受けてしまった。
 「藤堂家一門、藤堂仁右衛門なりっ、覚悟いたせ」
 仁右衛門はすかさず槍を捨て、倒れた五介に組み付き、ふたりは上になり下になりして、今朝までの雨でぬかるみとなった山肌を泥だらけになって転げまわった。
 仁右衛門も今朝の戦闘開始以来、第一線を駆け回っており、五介同様疲労の極にあった。手負いとはいえ五介の必死の抵抗に仁右衛門は止めを刺すことができない。
 やっとのことで仁右衛門は五介を仰向けに組み伏せ馬乗りになったが、
 「仁右衛門とやら、拙者は大谷刑部が近習、湯浅五介なり。わが殿の面貌は業病がため崩れ、首級を衆目に晒すにしのびない。そのままにしておいてくれぬか」
 と懇願する五介の泥だらけの表情に心が動いてしまった。
 仁右衛門は頷いた。
 「心得た。誓って口外はせぬ」
 五介は抵抗をやめ全身の力を抜いた。同時に仁右衛門の抜いた脇差が五介の首を離した。
 仁右衛門は近くの沢で討ち取った首の泥を洗い流した。五介の表情は安堵のためか、かすかに微笑んでいた。
 仁右衛門は、
 「武士は相見互いじゃ。冥土にも敵がおろうよ。主人を守るがよい」
 と吉隆の首の脇に五介の首を埋めた。
 ちょうど、仁右衛門の姿をみとめた手下の兵が駆け寄って来たが、
 「ここに敵はおらぬ。戻って宇喜多の陣を蹴散らすのじゃ」
 と仁右衛門は天満山の方へ駆け出した。
 後日、首実検の場で仁右衛門は家康から吉隆の首の所在を詰問されるのであるが、五介との約束をまもって明かすことをしなかった。
 山中村で小早川の大軍を相手にしていた吉勝、頼継兄弟も孤軍奮闘して全滅の危機に瀕していた。久八郎の報告によって父の最期を知った二人は最後の突撃を試みようとしたが、久八郎をはじめ近臣らの諌止により父の意に従って敦賀へ落ち延びて行った。

トップページへもくじへ 九章・朋友