照山城
(てりやまじょう)

豊橋市賀茂町


▲ 照山城の南側からの遠景。城址のすぐ北側は東名高速道路が東西に通じている。

謎の城主

 照山城は一般的には時期、城主とも不詳とされている。それは伝承を史実として確認できないためである。この大きな障害となっているのが牧野氏の系譜の曖昧さにあると思われる。

 「八名郡史」には牧野筑意が廃寺跡に築城したとある。この牧野筑意という人物が問題で、牧野氏系図中の誰を指しているのかが分からないのである。したがって不詳ということになってしまう。

 また「賀茂神社誌」には牧野半左衛門筑意の城として照山城が記されている。いずれにしても牧野筑意なる人物の出自に関しては記載がなく不明であるが、照山城が牧野氏関連の城であったことは間違いなさそうである。

 この「賀茂神社誌」に記された照山城の件を覗いてみよう。

 保延(1135-41)の時代に八名・設楽群司であった富永六郎親兼が照山に居住していた。その後、元亀・天正の頃に牧野半左衛門がこの地に築城して照山城といった。

 永禄十一年(1568)十二月、徳川家康の遠州入りに際して牧野半左衛門らが案内に立ち、家康は照山城に立ち寄った。そして賀茂神社に参詣、武運長久を祈念して御旗を奉納、遠州へと駒を進めた。

 天正元年(1573)長篠出陣に際し、家康は賀茂神社に参詣して牧野筑意の照山城に止宿した。

 以上が「賀茂神社誌」に記された牧野半左衛門筑意並びに照山城のことである。

 牧野筑意は家康に自らの城を宿所として提供するほどであったから、当然のことながら家康の下知に従っていたということになる。時には家康の軍陣に参じて戦うこともあったはずである。

 天正十八年(1590)に家康は三河・遠江を去って関東に移るのであるが、他の三河武士の多くがそうであったように牧野氏も関東に移った。牧野本家である牛久保城の牧野康成(やすなり)は上野国大胡二万石を拝領した。後代は越後長岡藩主となる系統である。

 この時、もう一人の牧野康成が武蔵国足立郡石戸に五千石を拝領して移っている。こちらの方の名は康成(やすしげ)と読まれている。子孫は後に田辺藩主(田辺城)となる系統である。

 後者の牧野康成が実は照山城主牧野筑意のことであろうとする説があることを付言しておく。

 ともかく、決定的な史料が発見されぬ限り、牧野筑意が何者なのか、それは謎のままということになろうか。
 ▲ 城址一帯は現在加納寺の寺域となっている。加納寺は文正元年(1466)の創建であるが、後に廃寺となった。そこへ牧野筑意が築城して居城とした。城が無住となって廃れた跡に天明八年(1788)、再び加納寺が再建されて現在に至っている。
▲ 加納寺の南側の小路沿いに土塁跡が残っている。

▲ 加納寺の北側には土塁や堀、曲輪跡が残っているようであるが、私有地のために立ち入り禁止となっている。

----備考----
画像の撮影時期*2009/07

 トップページへ三河国史跡一覧へ