和田城
(わだじょう)

豊橋市石巻本町


▲ 和田城跡の北側からの風景。左に見えるガードレー
ル橋(嵯峨橋)から右側一帯の森が城址となっている。

和田渡辺氏の古城

 城址近くには「いぼ取り地蔵」で知られる禅刹春興院が建っている。戦国期に和田城主渡辺氏が菩提寺として創建した寺である。

 この寺の裏手(北側)から東側にかけて土塁や堀の遺構が見られ、この寺自体も城域に含まれていたものと思われる。

 城館資料によれば城主として和田民部、渡辺久左衛門、図書助浄、山城守茂とある。図書助、山城守ともに渡辺氏である。

 渡辺氏が和田に土着する以前(南北朝期)に和田民部なる人物がこの地に居たようであるが、詳細はよく分からない。

 南北朝期、南朝方の高井主膳正という武士がこの和田城の南800mほどの所に城(高井城)を構えており、やがて足利の大軍を迎え撃ち、力及ばず石巻山城に籠もって自刃している。小規模ながらもこの地域が南北朝争乱の舞台であったことを物語っている。

 この和田城の近くには「御所」の字が残っており、南朝方との関連がありそうでもある。

 渡辺氏が戦国期のいつ頃、和田に落ち着いたのかもよく分からない。出自も同様によく分からない。おそらく天文から永禄の頃(1532-1569)にかけてここに城館を構えていたものと思われる。地理的関係で時期によって今川氏に属し、または松平氏に属するなどしていたであろうことは推測できる。

 この地に伝わる伝承のひとつに渡辺図書助の登場する昔話がある。要約するとこうなる。

 南北朝の戦い(高井主膳と足利勢の戦い)の後、村人たちは両軍の戦死者を集めて葬り、そこに松を植えた。この松が大木に成長すると巨大な百足(むかで)が住み着くようになり、姫街道を往来する旅人を襲って食べてしまうまでになった。そこで図書助が城のすぐ近くの椙本神社の神木で弓矢を造り、この巨大百足を退治した。

 という話であるが、ちなみに椙本神社にはこの時の白木の強弓が納められているという。

 ともかく、こうした伝承が残っているということは、和田城主渡辺図書助が領民のためにひと肌脱いだ頼もしい領主であったことを物語っているのだ。

 ちなみに図書助の子孫は徳川家に仕え、旗本になったという。
 ▲ 渡辺氏の菩提寺、春興院。
▲ 春興院の裏手(北側)に残る土塁。

▲ トップ画像の嵯峨橋を南に渡ると曲輪跡が見える。

----備考----
画像の撮影時期*2009/10

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