山本晴幸生誕地
(やまもとはるゆきせいたんち)

豊橋市賀茂町


▲ 大正四年(1915)十一月に当時の賀茂村によって建てられた「山本晴幸生誕地」の碑。

謎の軍師、
     誕生の地

 山本勘助、武田信玄の軍師として小説やドラマでは欠かせない人物なのであるが、その実態となると謎の部分が多い。最近の史料(昭和44年発見の「市河文書」)によってその実在は確実視されたとはいえ、その出自や信玄に仕える以前のこととなると未だ伝承の域を出ないのが実情のようである。

 生誕地に関しても、静岡県富士宮市山本とここ愛知県豊橋市賀茂町の二ヵ所に石碑が建てられていて、どちらがどうなのか戸惑うばかりである。

 ともかくも、ここでは賀茂町を生誕地とした山本勘助の所伝を見てゆくこととしたい。

 山本家はもとをただせば清和源氏の流れで新羅三郎義光の三世山本遠江守義定を祖とする。代々駿河国富士郡に住し、伝次郎幸綱の代に三河国八名郡賀茂荘に所領を得て移った。この幸綱を三河山本家初代とし、二代山本帯刀、三代山本藤七郎光幸と続いた。

 明応九年(1500)八月十五日、勘助は光幸の三男として生まれた。名を源助という。永正十一年(1514)、牛久保の牧野氏家臣大林勘左衛門貞次の養子となり大林勘助貞幸と名乗る。大永四年(1524)、武者修行の旅に出る。

 この旅で高野山に籠り、勘助の守本尊として名高い摩利支天像を得たのである。

 天文三年(1534)、十年の武者修行を終えて牛久保に戻る。ところが大林家には実子が生まれていたため、勘助は養子の縁を切って山本姓に戻り、再び旅に出た。

 天文十四年(1545)、武田家への仕官が決まり、牛久保の長谷堂(現・長谷寺)で入道した後甲斐に赴いたという。名乗りは道鬼斎、四十四歳の春であった。

 その後は信玄のもとで高遠城や小諸城の改修に携わり、永禄の初め頃には川中島に海津城を築き、上杉謙信との対決に備えた。軍師というより、築城家としてその才能を発揮したともいえよう。

 永禄四年(1561)、川中島の戦い。勘助はおのれの献策した「啄木鳥の戦法」が失敗し、危機に瀕する信玄本陣を守るために越軍の中に駆け入り、壮烈な討死を果たした。

▲ 生誕地の碑近くの医王山本願寺。山本勘助の菩提寺とされている。境内には勘助の両親の墓が残されている。
 ▲ 本願寺の墓地の一画にある山本勘助両親の墓。
▲ 本願寺の本堂では山本勘助の
陶人形が訪れる人を迎えてくれる。

----備考----
画像の撮影時期*2007/09

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