松平氏館
(まつだいらしやかた)

国指定史跡

豊田市松平町


▲ 現在は八幡神社松平東照宮の境内地となっている松平氏館跡。堀や石垣は関ヶ原
合戦後に九代太郎左衛門尚栄によって整備されたものと伝わる。鳥居の横には
「国指定史跡・松平氏遺跡・松平氏館跡」と「松平氏発跡地」の碑が建てられている。

葵の里

 松平氏の始祖である親氏がここ松平郷にやってきたのは十四世紀後半頃のことであったと思われる。それまでここ松平郷は在原氏の治める山間の小さな郷村であった。

 ここの土地を開いたのは在原信盛という武士で、弘安年中(1278-87)もしくは康永年中(1342-45)のこととみられている。信盛は後宇多院の時代の公家の士で加茂郡下山庄を与えられて下向、ここに屋敷を構えたのであった。民家はわずかに七戸、山々には松が多かったために松平郷と名付けたという。

 親氏、当時は時宗の遊行僧で徳阿弥と名乗っていた。徳阿弥の先祖は新田氏の分流で上野国新田郡世良田庄徳河郷所在の武士であったと言われている。それが南北朝の争乱で新田義貞が足利氏に敗れたために徳河郷を退去して浪々の暮らしを余儀なくされたのだという。

 この頃、在原家の当主は信盛の嫡男太郎左衛門信重の代であった。信重は文武両道に通じ、とりわけ連歌に秀でていたという。ある日、信重が連歌の会を催していた。そこへ徳阿弥が通りがかりにその会を見物していたのである。信重は徳阿弥を招いて連歌の座に加えた。徳阿弥の人格、風貌に惚れ込んだ信重は屋敷への逗留をすすめ、半年ほどが経った頃に娘の婿になって欲しいと申し出たのである。徳阿弥はこの地に留まる決意を固め、還俗して松平太郎左衛門親氏と名乗り、信重の後を継いだ。とこのように松平氏発祥の経緯が伝えられている。

 ともかく親氏自体が伝説的な人物となっているため、実際にどのような人物であったのかは分からないが、在原氏の遺領を引継いだ後は武力による所領拡大の道を歩み出したということだけは確かであろう。一族一党の繁栄を願うならば、肥沃な土地を得、そこから生まれる富を蓄えなければならない。諸国を遍歴して幾多の豪族の盛衰を目の当りにしてきた親氏には戦国の実相というものが痛いほどに分かっていたに違いない。

 親氏は巴川から矢作川方面に進出したかったのだと云われているが、いかんせん小さな力ではそれは暴挙であり、自滅の危険があった。まず力を蓄えることであった。

 親氏が最初に版図拡大の動きを見せたのは西隣の林添(はやしぞれ)攻略であった。領主藪田源吾忠元を不意討ちしてその領地を手に入れたのである。

 続いて南に進んで中山七名(泰梨、田口、岩戸、麻生、大林、名之内、柳田の各村)を攻略した。時期は応永二十二年(1415)とも伝えられているが、親氏の没年を応永元年(1394)とする説もあってはっきりしたことは分からない。

 ともかく親氏は領地を斬り取り、拡大して行くという戦国の世に躍り出たわけである。当然、自らが攻められることにも備えなければならない。そこで築いたのが郷敷城(松平城)である。

 親氏の後を継いだのは泰親である。泰親は親氏の弟とも嫡子とも云われているが一般的には弟とされている。親氏は晩年、子の信広と信光がまだ若年であるため、泰親に後見を頼んだのだという。

 応永二十八年(1421)八月十五日、泰親は信広、信光とともに岩津城の中根大膳を夜襲して討取った。この泰親による岩津進出は後の松平氏飛躍の土台となってゆく。

 岩津城を攻略した泰親は信光を城主とし、信広は松平郷に残した。信広が岩津攻めで負傷したためとか、生来病弱であったためとか云われているが、泰親の思いは嫡系である太郎左衛門家を争乱の巷から隔絶して残そうとしたのかもしれない。

 いずれにせよ、岩津城主となった信光の系譜は松平宗家としての道を歩み、信広の系譜は松平太郎左衛門家として松平郷を守り続け、明治の版籍奉還まで十九代続き、その御子孫は現在に至るまで御健在である。

 さて、信広が太郎左衛門家の三代目の当主となったが、その後の太郎左衛門家を簡単に概観してみよう。

 信広は文明三年(1471)の安祥城攻めに従軍したと伝えられ、同十三年(1481)に病没した。

 四代長勝は松平親忠に仕え、明応二年(1493)岡崎井田野合戦で討死した。

 五代勝茂は親忠、長親、清康に仕え、天文二年(1533)岩津城外の合戦で嫡男信茂を失い、自らも深手を負って陣中に没した。

 六代信吉(勝茂次男)は清康、広忠に仕え、天文十一年(1542)小豆坂合戦にて嫡男勝吉とともに討死した。

 七代親長(信吉次男)は広忠、家康に仕えた。岡崎在勤中に大給松平氏によって松平郷を襲われ、家屋敷、先祖伝来の重宝などを焼失した。広忠亡き後の今川氏の支配下時代を耐え抜き、永禄三年(1560)に家康を岡崎城に迎えた。永禄七年(1564)、病没。

 八代由重(親長次男)は家康に仕えたが永禄三年の刈谷城外の合戦で負傷、歩行不自由となり松平郷に閑居の身となる。天正十八年(1590)の関東移封に際しては家康から先祖の領地を守るように達せられ、松平郷に留まった。慶長八年(1603)、病没。

 九代尚栄は関ヶ原合戦に従軍、慶長十八年(1613)に旧領二百石を家康から賜った。大坂の陣後、林添二百三十余石を加増され、万石以上の大名なみの格式とされた。

 以後、重和、信和、親貞、尚澄、親相、信乗、信言、信汎、頼戴、信英と続いて明治を迎えた。

 こうして見ると、戦国期の太郎左衛門家は松平郷でひっそりと先祖の地に安住していたわけではなく、積極的に宗家とともに艱難辛苦を共にしていたことが分かる。それは数々の合戦に臨み、当主みずからが戦場を駆け、討死あるいは深手を負うなどしているからである。

▲ 松平郷園地に建つ、領内巡視中の「松平太郎左衛門親氏像」。
親氏は自ら鎌や鍬を取って橋をかけ、道を造るなどして郷民のためにつくしたという。
 ▲ 館跡の松平東照宮。松平親氏や徳川家康他が祭神となっている。
▲ 松平東照宮に隣接する八幡神社。

 八幡神社本殿前の「松平家・家康公産湯の井戸」。三代信光以来代々産湯に使われ続け、天文11年(1542)12月に岡崎城で家康が誕生した際には太郎左衛門家七代親長がこの井水を竹筒に入れて早馬で届けたと伝わっている。
 ▲ 松平氏館跡の東の丘には松平氏の菩提寺高月院がある。この山門は寛永18年(1641)に三代将軍家光によって寄進されたもので、将軍門とも呼ばれる。
 高月院境内の「家康公御手植松」の碑。永禄3年(1560)、家康の手によって植えられた松は文化12年(1815)の暴風雨で倒れ、幕府の指示で実生の松を植えたが、昭和57年(1982)に松食い虫のために枯れてしまい刈り倒された。現在の松は徳川宗家十八代恒孝公によって植樹されたものである。

▲ 高月院境内の「松平氏墓所」。石塀で囲まれた墓域に3基の宝篋印塔が並ぶ。中央が初代親氏、向かって右が二代泰親、左は四代親忠夫人のものである。
 ▲ 松平郷園地の松平太郎左衛門親氏像の前には親氏が天ヶ峰(松平郷の北3`)の山上で天下泰平の祈願を行い、自らの願文とした無量寿経の一節を刻んだ石碑が建っている。
「天下和順 日月清明 風雨以時 災歯s起 国豊民安 兵戈無用 崇徳興仁 務修禮攘」

▲ 「松平太郎左衛門家墓所」。ここには十一代信和(のぶふさ)以降の歴代当主が葬られている。

▲ 「松平郷々主・在原氏の墓所」。在原信盛、信重父子と初代親氏の夫人となった信重次女水女(すいひめ)の墓が並んでいる。

----備考----
画像の撮影時期*2008/11

 トップページへ三河国史跡一覧へ