(やまなかじょう)
市指定史跡
岡崎市羽栗町
▲ 山中城の主郭跡。「山中城址」の碑は大正12年(1923)に建てられ
たもので、題字は大久保家の子孫大久保忠言氏の書である。
侮りの代償
年号が大永に変わった頃(1520)、岡崎松平氏三代弾正左衛門信貞は西郷の姓を名乗り、安祥城の松平宗家から離れて独自に支配地を拡大していた。この山中城は信貞のそうした活動のなかで築かれた山城であった。 弾正左衛門信貞が西郷氏を称したのにはそれなりの理由があった。岡崎松平氏の初代は光重で、彼は松平信光の五男であった。文明三年(1471)に信光は安祥城を攻略し、続いて明大寺城(岡崎城の前身)の西郷頼嗣を降した。信光はかつての守護代家西郷氏の名跡を重んじたのであろうか、五男光重を頼嗣の婿にしてその跡目を継がせたのである。そして光重の子親貞が二代目となったが、彼には子がなかった。それで頼嗣の子信貞が三代目となったのである。 「松平なんぞ、もとをただせば怪しきものよ」 と信貞が云ったかどうかは分からないが、守護代家であった西郷氏を復活させようとしたのであろうか。それに松平の当主はまだ十四歳であり、自分を押え付けるほどの力量があるとは思えなかった。 その十四歳の松平宗家の当主は清康(家康の祖父)である。年若とはいえ、情義に厚く家来思いの主君であったため、家臣らからの信望は厚く、しかも武勇抜群であったという。明大寺城の信貞が西郷を名乗り、山中城を築いて勝手に領地を拡大していることに対し、安祥城では西郷討つべしの機運が高まっていたに違いない。 大永四年(1524)、清康は大久保忠茂の進言を容れて山中城攻めの軍勢を発した。ちなみに大久保忠茂は江戸初期に天下の御意見番として知られる大久保彦左衛門忠教の祖父にあたる。 清康軍の城攻めは奇襲であった。風雨のなか夜陰に紛れての不意討ちである。城方は武装する余裕もなく次々に討たれ、討死する者八十九人と伝えられている。 山中城を一夜にして陥落させた清康は西郷信貞を追って明大寺城へ軍を進めた。 明大寺城は館城である。とても本格的な戦闘に耐えられるものではなかった。西郷信貞は清康に降伏して明大寺城を明渡した。そして娘の於波留を清康に娶わせ、自らは本貫の地である大草に隠退した。侮りの代償はあまりにも大きかったと云えようか。 清康は直ちに居城を安祥城から明大寺城に移し、さらに岡崎城を築いて松平宗家の本城としたのである。岡崎城に移ってからの清康の勢威はやがて三河一国を平定し、さらに尾張へとその駒を進めることになった。 その清康が守山の陣中で家臣によって殺され、松平勢は総崩れとなった。いわゆる「守山崩れ」である。清康の後、広忠が宗家を継いだが、この時期は三河国内が織田方と今川方に分かれ、松平の一族さえもが両者に分かれて争うに至った。 天文十七年(1548)十一月、松平権兵衛重弘がこの山中城に拠って織田方に寝返った。岡崎城からは酒井正親、石川清兼、大久保忠勝らが出撃して城を落としたと伝えられている。 また永禄六年(1563)には一向一揆の門徒勢が山中城に籠ったため、家康が石川家成に命じて攻めさせたと云われている。 |
▲ 二の郭を廻る土塁の跡。 |
▲ 県道324号から100mほどの所に山中城址遊歩道の入り口がある。 | ▲ 二の郭跡には富士浅間社の祠が祀られている。 |
▲ 山中城址の遠景。県道からの眺めである。 |
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画像の撮影時期*2009/01 |