天方本城
(あまかたほんじょう)

周智郡森町大鳥居

城址
▲ 三倉川と吉川が合流して太田川となる。その合流点に城址
は位置している。昔も今も変わらぬ交通の要所である。

国人天方氏の
        最初の城

 父祖代々にわたり地域を支配し続けてきた中小の領主たちのことを国人と呼ぶ。彼らはその領地を守るために、時には大きな勢力の麾下に従い、またある時には決然と命運を賭して戦った。彼らが歴史にその名を登場させるのは、その殆んどが戦いの場においてであった。その出自、事跡となると曖昧、糢糊として深い霧の中に閉ざされて見えないのが実情である。

 天方氏の場合もその例外ではない。天方氏が飯田荘の地頭であった山内氏から分かれたものであることは諸書一致しているが、それ以外のことについては曖昧である。

 以下は「森町史」を基にはなしを進めてみる。

 十四世紀後半(南北朝後期〜室町初期)に天方氏を称し、それから数代を経た明応三年(1494)、当主通季のとき、今川氏親は中遠の原氏討伐のために後の北条早雲を大将とする大軍をこの附近に進攻させてきた。今川軍は中遠三郡(佐野、山名、周智)を席捲したとあるから通季が今川氏に降ったのはこの頃であったと思われる。

 文亀元年(1501)、遠江守護の斯波氏は信濃の小笠原氏と連合して今川氏に対する反撃の行動に出た。この時の戦場となったのが座王(久野)城と天方本城であった。

 通季は斯波の大軍襲来の前に城を捨てて今川方に身を寄せ、今川方の将本間宗季らとともに城を奪還している。

 戦後、堅固な城の必要性を痛感した通季は城の南側に新たな城を築いた。白山城である。

 その後、遠江は今川氏の支配するところとなり、平穏な時期が続いた。通季は道芬と号し、上京して倭か連歌に興味を寄せたことでも知られている。

 永禄三年(1560)、今川義元が桶狭間で敗死した後、遠江は徳川家康と武田信玄、そして領国を維持しようとする今川氏真の三つ巴の戦場となることが誰にでも予想された。

 このように暗雲の広がりつつあるこのときの天方氏の当主は山城守通興であった。その通興がより堅固な城塞を求めて築いたのが、現在の向天方に残る天方城なのである。
白山城
▲ 天方通季が本城の南向いに築いた白山城。

----備考----
画像の撮影時期*2005/10

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