(はらかわじょう)
袋井市国本
▲ 城址中央部分を東西に通じる中道。この道路の左側に本丸が
あったとされているが遺構は開墾と宅地化によって判然としない。
恩義に報いてのち
弓矢を捨てて
原川氏の名が初見されるのは、今川氏親の重臣であった後の北条早雲こと伊勢新九郎が三河の松平長親を攻めたときで、そのなかに原川の名が登場している。これは永正七年(1510)頃のことで、当時すでに原川氏は当地に居館を構えていたと思われる。 その後は今川氏の被官として大過なく過ごし、堅城とはいえぬまでも一城の主として近在を治め続けた。 しかし、盛者必衰の理の如く、主家今川氏も氏真の代になると、その経営にかげりが見えはじめた。東西から武田氏と徳川氏がそれぞれ駿河と遠江を脅かす動きを見せはじめたのである。 永禄十一年(1568)暮、武田の大軍に追われて駿府を脱出した氏真は、多くの家臣が離反したなかにあってその節を曲げずにいた朝比奈泰朝の掛川城へ逃げ込んだ。 武田と時を同じくして徳川家康も三河から遠江へ進攻を開始した。西遠の国人の大半は瞬く間に徳川の麾下に参じ、家康は掛川城を攻めるべく駒を進めた。 家康が掛川城を包囲したのが十二月二十七日であるからその少し前であろうか、家康は原川の西、不入斗に布陣した。 城主原川大和守頼政と弟讃岐入道は城を枕に討死するより、城を捨てて掛川城へ籠り、主家今川氏の恩義に報いる道を選んだ。 空城となった城は徳川軍によって焼き払われ、灰燼に帰した。 さて、掛川城の戦いは翌年五月まで続き、大和守らの奮戦もあってかついに落城には至らず、和議開城となった。氏真一門は海路、北条氏を頼って去り、大和守らもまた城を出た。 「兄者、この先どうする。われらも北条に身を寄せるか」 弟の讃岐入道は兄大和守の顔を見た。 「今川家への忠は終ったのだ。あとはのんびりと余生を過ごそうか」 兄弟は高瀬村(掛川市高瀬)に隠棲、弓矢を捨てて帰農した。 |
←中道の本丸跡附近に設けられた説明板。 |
----備考---- | |
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訪問年月日 | 2005年8月28日 |
主要参考資料 | 「静岡県の中世城館跡」 |