(ほりこしじょう)
袋井市堀越
▲ 今川了俊開基の祥雲山海蔵寺。ここは了俊の城地の一部とされている。
九州平定の功労者、
今川了俊の城地
今川了俊とは駿河守護今川氏の初代範国の次男貞世のことである。嘉暦元年(1326)生まれで没年は応永二十七年(1420)であるといわれ、享年九十六歳ということになる。当時としては驚異的な長寿であったといえる。 了俊は永和四年(1378)に遠江守護に補任されているが、その事跡は足利幕府の九州探題としての功績の方が著名である。また歌人としても後世に名を残しており、まさに文武に秀でた武将であった。 了俊が九州探題を命ぜられたのは応安三年(1370)で、足利義満が三代将軍となった翌年のことであった。当時の九州は南朝方の勢威が盛んで、幕府派遣の探題が九州の地にも入れぬ有様であった。新将軍の威光を示さなければならない次期探題に課せられた使命は重大であった。 了俊はその重責を担って、弟の仲秋、子の義範、そして郎党及び遠江の地侍たちを引き連れて九州へと向ったのである。 応安四年七月、まず義範が豊後高崎城に入った。南朝方との合戦は百余度に及んだといわれている。また仲秋の軍は十一月、肥前に上陸して松浦氏をはじめ肥前の諸氏を糾合し、南朝方を各所に打ち破り筑前へと進んだ。 十二月、了俊は門司に上陸、翌年春には仲秋軍と合流して大宰府北方の佐野山に陣した。包囲すること数ヶ月、八月十二日ついに大宰府から南朝方を駆逐して占領した。まさに十二年ぶりの大宰府奪還であった。 以後二十五年の長期にわたり菊池氏ら南朝方との戦いと九州諸氏の糾合に力を尽くし、幕府の権威を確立したのであったが、応永二年(1395)に突然の解任をもって了俊の九州平定事業は終結した。 解任は幕府中央の権力構図の変化によるものであった。それにしても了俊の功績に対する幕府の態度は冷たかった。わずかに駿河半国を了俊に与えたに過ぎなかったのである。了俊は一時、将軍義満に対する反発から大内義弘に加担(応永の乱)、関東管領足利満兼との連携を策している。 しかし乱は鎮定され、関係者は将軍に恭順の意を表した。義満の政治を悪行、無道と非難した了俊も失意のうちに異心のないことを誓い、所領であるここ堀越に隠棲を決めたのであった。 晩年は歌道と仏道三昧の日々を当地で送り、再び世に出ることはなかった。また、郭中に海蔵寺を建立してその開基となった。 了俊の後、仲秋、貞臣、貞相と続き範将の代になると遠江守護斯波氏との対立抗争が激しくなり、範将は周辺土豪の領袖的存在となってこの戦いに臨んでいる。長禄三年(1459)、戦いは大規模なものとなり、「中遠一揆」と呼ばれた。しかし、戦いは斯波氏側の勝利に終わり、範将は戦死してしまう。 その後、貞延、貞基と続く。永正三年(1506)、貞基は今川氏親の重臣伊勢新九郎長氏(後の北条早雲)による三河攻めに遠州衆として参陣して堀越氏の名を残している。 貞基の嫡男氏延は永禄六年(1563)に今川氏真に見切りを付け、武田信玄に従った。このため氏真による討伐を受けることとなり、今川重臣小原鎮実(しげざね)の軍勢に堀越城を攻められ、討死してしまった。 氏延の子氏直は諸井村(袋井市諸井)に落ち延び、諸井九郎右衛門と称した。後に堀越村に復帰して浜松城の徳川家康出陣の用向きを勤めたと伝えられている。 |
▲寛延二年(1749)三百三十周忌に建立された今川了俊の供養塔。 |
▲海蔵寺の裏山に鎮座する須賀神社。海蔵寺とこの神社を含めた一帯が今川氏の館跡(城跡)とされている。 |
▲海蔵寺の山門。 | ▲海蔵寺境内の一画にある祠。土塁跡を思わせる。 |
▲須賀神社の山林の様子。遺構はないとされている。 |
----備考---- | |
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訪問年月日 | 2005年8月28日 |
再訪年月日 | 2018年4月22日 |
↑ | 2021年9月25日 |
主要参考資料 | 「遠江史蹟瑣談」他 |