森平城
(もりだいらじょう)

掛川市下垂木


▲森平城は富部城とも呼ばれ、旗本久貝氏が戦国期を過ごした城跡である。
(写真・白泉寺西側の高台にある稲荷社から南を見る。右半部の舌状台地の様子がわかる)

今川家臣久貝氏の城    

 森平城、と言うより戦国当時は富部城と呼ばれていた。城主は今川義元に仕えていた久貝(くがい)市右衛門正勝である。城内の一画にある白泉寺の開基が久貝正勝であるから、築城者は正勝である可能性が高い。

永禄十二年(1569)五月、今川氏真が逃げ込んだ掛川城が徳川家康の攻撃の末に開城した。氏真は相模の北条氏のもとへ落ちて戦国大名今川氏は没落した。掛川城落城を機に久貝正勝は徳川家康に従い、本多忠勝の麾下に参じた。元亀三年(1572)の三方原の戦では本多忠勝のもとで活躍、武田勢に対して単騎で突進し、戦功をあげたという。天正十五年(1587)、正勝没。

政勝の子正俊は天正元年(1573)生まれで徳川秀忠の小姓に取り立てられた。天正十八年(1590)の家康関東入りに従い遠江の地を去ることになり、城は廃された。

正俊はその後、元和二年(1616)に目付、同五年(1619)に大坂東町奉行に就任して正保五年(1648)の死去するまで務めた。石高は五千石の大身旗本であった。

さて、久貝氏の遠江時代の居所であった森平城である。白泉寺の裏、北西の丘陵が主郭とされ、そこから南に尾根筋が舌状に300mほど傾斜して続いており、その南端部が居館跡とされている。主郭とされる丘陵部分には神社が建立され、山頂(主郭)近くまで登ることができる。そこからは久貝氏の故居跡を俯瞰できる。居館部分とその周辺は宅地化して遺構の確認は難しく、地形のみが旧状を想起させてくれる。


▲白山寺西側の高台へ続く階段。上には稲荷社があり、城域の全体が俯瞰できる。

▲舌状台地の南端部。ここに居館があったとされる。

▲久貝正勝開基の白泉寺山門。

▲白泉寺西側高台の稲荷社。この付近が主郭跡とされるが物見台程度のものであったろう。

▲主郭の山頂から南へ傾斜して伸びる舌状台地。複数の曲輪があったとされる。


----備考----
訪問年月日 2020年8月12日
主要参考資料 「静岡県の中世城館跡」他

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