(うらかじょう)
浜松市天竜区佐久間町浦川
▲ 城址南側の浦川中学校から城山を望む。城址は山頂部まで墓域化されている。
戦いを
捨てた城
城としての歴史は残されてはいない。 ただ、分かっていることは日名地氏の居城であったようだ、ということだけである。 居城年代も分かっていないが、戦国時代には日名地氏が小さいながらもこの城に拠っていたと思われるのである。 永禄十一年(1568)に、ここから南西6kmほどのところの鶴ヶ城が三河勢(徳川方)によって攻め落されているが、その際に鶴ヶ城の城主が浦川方面の味方に援軍を頼んだと伝えられている。 浦川とはここのことであり、浦川方面の味方とは日名地氏のことを指すのではないだろうか。 いくさに負ければ自害して果てるか、一族流浪の憂き目にあうかのどちらかである。 日名地氏は、この地を愛するがゆえに弓矢を捨てて土着の道を選択したのではないだろうか。 慶長十二年(1607)、徳川家康は角倉了意に、天竜川における舟路の開削を命じているが、この作業に日名地氏が加わっている。日名地氏は浦川地域の有力者として存続していたのである。 その後も浦川村の名主として代々続き、その子孫は現代に至っている。 |
▲ 城址の南を流れる相川。この川は 北流して天竜川に合流している。 |
----備考---- |
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画像の撮影時期*2004/05 |