熊谷塚
(くまがいづか)

浜松市中央区入野町


▲ 「熊谷塚」の史跡碑が建つ公園。以前は一面の雑木林であったが、現在では宅地化が
進み、付近の草叢に埋もれていた数体の石仏とともにここへまとめられたものである。

仇敵に一矢を報う

 享禄三年(1530)、東三河で激しい攻城戦があった。宇利城の戦いである。攻め手は三河の大半を平定して勢いに乗る松平清康(徳川家康の祖父)率いる三千の軍勢で、城の守り手は今川氏に属する城主熊谷備中守実長以下数百の城兵たちであった。

 戦いは一進一退で城方の健闘が目立ったが、城内にいた内応者のためにあえなく落城してしまった。戦死者は熊谷勢三百七十余人、松平勢九十余人と伝えられている。この数字から熊谷勢はほぼ全滅状態であったかと思われる。こうした状況下で熊谷実長とその息子たちは城を落ち、奥三河の山中へと逃げのびた。実長自身のその後の消息は伝えられていない。すでに城中で討死したとも、また逃避の途中で自害したとも憶測されている。

 そして息子たちである。嫡男直安は重畳たる奥三河の山塊を踏み越えて現在の北設楽郡豊根村上黒川(黒川城)の地に至り、そこを拓いて土着した。次男正直は額田郡高力に潜み、後に高力を名乗って徳川家に仕えた。

 さて、上黒川に土着した直安は五人の男子をもうけた。嫡男の直基は直安の後を継いで帰農し、その子孫は現在に至っている。

 そして直基の弟(「八名郡誌」)又次郎直次のことである。史料には「今川氏真に属し遠江国に住し入野熊谷と称す」とある。ただこれだけで、それ以外のことは分からない。今川家に仕えてこの付近(塚のある近辺か)に居住したのであろうという程度である。

 しかしなぜ直次が奥三河の地を離れて戦国争乱の渦中に出てきたのであろうか。今川氏真の代であるから、遠江の地は西から徳川家康が、北からは武田信玄が攻め込もうとしていた時期である。単に旧主今川家を頼って来たのであろうというだけではしっくりいかない。

 父直安からは宇利城の戦いの話を聞かされて育ったはずである。仇敵徳川に一矢を報いる。この一念が直次を戦乱の渦中に駆り立てたのだと云えるのではないだろうか。

 無論、どの戦場にも直次の名は伝えられていない。無名の戦士として果てたのであろうか。まぼろしの如く消えた一人のつわものが居たことを一個の石碑だけが伝え続けている。


▲「熊谷塚」の碑。

▲小さな公園の片隅に移設された塚の碑。



----備考---- 
訪問年月日 2009年3月7日 

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