(のじじょう)
浜松市浜名区三ヶ日町野地
▲ 野地城本丸跡。現在では市民の運動場となっている。
湖北街道の寄留地
永禄十二年(1569)二月、徳川勢は敵対し続ける浜名頼広の居城佐久城を攻略。本多信俊が在番となって湖北の押さえについた。 時が流れ、徳川家康による遠州支配が安定してくると、城の用途も戦闘に備える拠点てしてではなく、軍団の移動の際の宿営地として利用されることが主となってきた。そうなると、街道筋から離れた佐久城は不便であった。 天正十一年(1583)、家康は本多信俊、上村庄右衛門を奉行に任じ、佐久城より街道に近い位置に築城を命じたのである。それが野地城である。 城主は本多忠勝、本多信俊、本多信勝、三浦為春と続いた。慶長期になると家康は上洛、下向の際にここ野地城を寄留地として利用し、その度に城は増築拡大されていった。 元和五年(1619)以降は市野、彦坂、米倉らの各氏が代官として城を預かった。家康没後も幕府がこの城を必要としていたのである。 寛永三年(1626)には三代将軍家光の上洛休憩所として利用され、御茶屋御殿が造立されている。 その後も城は半世紀以上にわたり維持され続け、延宝八年(1680)にいたり幕府は廃城を決定した。その際に建物、器具類は荒井(新居)関所へ移されている。 かつて将軍を迎えた城も現在では市民の憩いの場としてひっそりとたたずんでいる。 |
▲ 城址西曲輪跡の神明宮。ここには土塁、物見台跡が遺構として残っている。 |
▲ みかん畑の片隅に建てられた城址碑。 |
▲ みかん畑の一部には堀跡らしき遺構が残っている。 |
----備考---- | |
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訪問年月日 | 2004年8月22日 |
主要参考資料 | 「静岡県の中世城館跡」 |