家康御陣場
(いえやすごじんば)

町指定史跡

榛原郡吉田町大幡

御陣場跡
▲ 八幡神社入口には陣場跡を示す説明板が立っている。

武田の
        補給路を断て

 陣場跡を示す説明板には天正六年(1578)に徳川家康がここに布陣したとある。

 家康による小山城攻撃は元亀二年(1571)に武田信玄によって攻略されて以来幾度となく行われてきていたが、天正五年の長篠合戦に大勝してからはより積極的になっていた。この当時の家康の最大の目的は遠江の平定であった。その天王山となるのが高天神城であった。この小山城攻めも高天神城をめぐる戦いの一環として進められたのである。難攻不落を誇る高天神城を孤立させるために家康はその補給路を断つ作戦に出たのであった。

 武田方の高天神城に対する補給は海陸両面の補給線を確保していた。ひとつは駿河湾を海路相良湊へ船を着け、物資を陸揚げする補給線で、いまひとつは陸路駿河から大井川を渡って高天神城に至る補給線である。この陸路の補給線の中継拠点となっていたのが小山城であった。この小山城を制することが一方の補給線を断つことになるのである。

 話しを戻そう。天正六年である。三月九日、家康は駿河の田中城を攻め、十日に牧野原城へ入った。田中城の動きを封じた家康は十三日、小山城近くに駒を進めて城を攻囲した。どのような戦いであったかは詳らかでないが、このときに本陣を置いたのがここ八幡神社の森であったとされている。

 このときの八幡神への祈りが通じたのか家康は三年後に高天神城を落とし、翌天正十年には怒涛の勢いで駿河に進攻、さらには武田氏の本拠甲府に乗り込んだのである。無論、小山城もこのときに徳川勢によって落とされたが、城内にはすでに武田方の姿はなかった。
八幡神社 ▲ 後年、家康は八幡社に二町
   四方の境内地を寄進した。
説明板
 ▲ 陣場跡を示す説明板。

----備考----
画像の撮影時期*2005/11

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