(たかてんじんじょう)
国指定史跡・続百名城
掛川市上土方
▲ 城址北西から望見。右側の峯が西の丸、二の丸のある
西峯、左側の峯は本丸、三の丸のある東峯である。
今川の遠州進出の
拠点高天神
高天神城の創築時期については諸説あって定かでない。創築の時期が最も古い説としては源頼朝の時代に当地の地頭であると思われる土方次郎義政がここに砦を築いたとされている。さらに時代は下って、応永二十三年(1416)の関東における上杉禅秀の乱に際して遠江国守護であった今川了俊が築城したものであるとも伝えられている。いずれにしても高天神城が本格的な城砦として出現する以前のことである。 高天神城が遠江制覇の重要拠点としてその存在を現し始めるのは文明年間(1469〜1487)のことである。今川氏親による遠江攻略の時期のことである。この時の城主は今川重臣の福島上総介正成であった。ちなみに福島正成の娘は氏親の側室となっており、一子を儲けていた。天文五年(1536)、今川家の家督争いが勃発したおり、福島正成は孫の恵探を擁して花倉城(藤枝市)に挙兵、承芳(義元)方と戦った。世にいう「花倉の乱」である。結果は承芳方の勝利で正成は孫とともに果てたのであった。 この時、承芳方として高天神城を攻めたのが当時馬伏塚城主であった小笠原春義であった。今川家当主となった義元は天文十一年、高天神城を小笠原氏に与えた。この時の小笠原家当主は弾正忠氏清であった。 天文年間、今川の勢威は駿河、遠江、三河の三ヶ国に及び、絶頂期を迎えていた。しかしその絶頂も永禄三年(1560)、義元が桶狭間に討たれたのを境に崩れ始めることになる。 永禄七年、氏清亡き後を継いだ与八郎長忠は乱世の到来を予感したのか城の修築に取り掛かっている。 永禄十一年十二月、武田信玄は大軍を擁して一気に駿河に攻め入り、瞬く間に制圧してしまった。今川家の当主氏真は遠江掛川城に逃げ込んだ。時を同じくして徳川家康も三河から遠江へ攻め入り、掛川城の氏真を追放してしまった。 三ヶ国の戦国大名今川氏はここに一瞬にして滅び去り、駿河の今川旧臣らは武田に従属を誓い、遠江西部の諸氏は次々と徳川に従った。 駿河を制圧した武田の打つ手は素早かった。高天神城の小笠原長忠のもとへは徳川よりも早く武田の重臣秋山信友から誘いの手が伸びた。 長忠ら小笠原の一党は武田に属することを決めた。しかし、今度は徳川からの誘いがあった。家康からの使者は長忠の縁筋でもある三河幡豆城主小笠原新九郎安元であった。長忠は馬伏塚城の小笠原美濃守などの一党を再び゛集めて話し合った。その結果、徳川に従うことになり、直ちに掛川城を攻撃中の家康のもとへ参陣したのであった。 翌永禄十二年、家康は馬伏塚城に大須賀康高を置き、高天神城周辺の地侍らは皆、長忠の麾下に入り、有事には城兵として詰めるべきことを命じた。 元亀二年(1571)三月、武田信玄が大軍を率い、大井川を渡った。小山から相良方面を制圧しつつ塩買坂(菊川市)に陣した信玄はさっそく高天神城の様子を窺った。信玄は高天神城の攻略を一ヶ月とみた。その間に徳川家康と織田信長が高天神城の後詰に出て来るであろう。それは、この時点では信玄の望むところではなかった。 「ここは、ひと当てして引き上げるか」 信玄は内藤昌豊の軍を先発させた。 無論、小笠原長忠は兵を整えて備えを固めていた。総勢二千余人であった。長忠は武田の動きに合わせ、内藤勢を迎え撃つために小笠原右京以下五百余人を菊川の渡河点である国安村へ進出させた。菊川の渡河点はこの他に獅子ヶ鼻の渡しがある程度で、川そのものが高天神城の外堀の役目を果たしていたのである。 戦闘は三段構えの内藤勢が渡河しながら小笠原勢を押し包むようなかたちで進み、さらに信玄本軍の接近もあって小笠原勢は城へ引き上げざるを得なかった。内藤勢は撤退する小笠原勢を追撃しつつ高天神城に迫り、大手門の城門を攻撃するに至ったが、信玄はここで兵をまとめた。 その後、信玄は北へと移動をはじめ、城から遠ざかった。信玄はそのまま掛川へ出ると、さらに北上して飯田、天方、犬居、只来の諸城を陥れて甲府へ帰ったのである。 翌元亀三年、信玄は三方原合戦で家康を打ち破り、三河へと軍を進めたが、彼の命の炎がここで燃え尽きてしまった。家康も信長も、そして高天神城の城兵らも、この巨人の死去に胸を撫で下ろしたに違いない。 天正元年(1573)、信玄の後を継いだ武田勝頼が遠江に出陣してきた。目的は高天神城制圧の足掛りとして諏訪原に築城するためであった。 小笠原長忠は小笠原与左衛門以下五百の兵を諏訪原附近に進出させて築城の様子を窺わせた。しかし武田側の馬場美濃守の警備には隙がなく、与左衛門らは四、五日対峙しただけで引き上げざるを得なかった。 天正二年五月、武田勝頼は駿河から塩買坂に進出して国安村に布陣し、さらに高天神城を囲んだ。 小笠原長忠はこの緊急事態を家康に告げ、後詰を催促した。しかし、家康からの返事は、 「織田殿の出馬を待ち、共に駆けつけるゆえ、それまで持ち堪えられよ」 というものであった。 しばらくは小競合いのみで対峙状態が続いたが勝頼の力攻めの下知が出ると六月二十八日から武田勢による攻撃が激しくなった。殊に西の丸の攻防は激しく、守将の本間八郎三郎とその弟の丸尾修理亮が鉄砲に撃たれて討死、西の丸は武田勢によって占拠され、戦闘は城中央部の井戸曲輪の攻防へと移った。 落城も時間の問題となり、城主長忠はしきりに家康へ援軍要請の注進を出したが、家康出馬の報せはなかった。もはや城を枕に討死かと覚悟を決めた頃、武田方から和議の申し入れがあった。長忠は家康に見捨てられたと思った。 「掛川の城攻めにはじまり、姉川の合戦、観音寺城攻めにと常に徳川殿の先手をつとめ、功績をあげてきたというのに‥‥」 長忠は城兵を助けるために和議に応じた。 開城にあたり、城兵は徳川へ戻る者と武田へ走る者とに分かれ、自由とされた。長忠は富士下方に一万貫を与えられて武田についた。 ともかくも五十七日に渡った籠城戦もここに終わり、高天神城は武田の城となったのである。 武田方の持ち城となった高天神城には今川旧臣の岡部丹波守直行を城主として駿河、遠江の武田方の将士が守りについた。 翌天正三年、織田、徳川の連合軍が長篠合戦で武田軍を壊走させ大打撃を与えた。時を置かず、家康は武田の立ち直らぬうちにと失地回復の行動に出た。当然、高天神城も取り返さなければならない城である。とはいえ、高天神城が難攻の城であることは承知している。家康は長期包囲戦で臨むことにした。 この年、目の上の瘤であった諏訪原城を落とすことに成功して武田の糧道の一方を断ち、天正六年には馬伏塚城から前進して大須賀の地に横須賀城を押えの城として築城した。 そしてこの頃から高天神城を取り囲むようにしていくつもの砦を築いてゆくのである。その代表的なものが三井山、小笠山、中村山、火ヶ峰、獅子ヶ鼻、能ヶ坂の六砦である。 天正九年の年が明けた。勝頼の遠江出陣は天正七年、一時的に国安村に布陣したことがあったが、それ以来途絶えていた。徳川方の高天神包囲網は完璧さを増し、高天神城内の兵糧は尽きつつあった。 三月二十二日、城主岡部丹波守は全軍をあげ、夜襲をもって最期の一戦に臨むことを下知した。夜更け、城主以下城兵七百余は城の西と北にあたる、林ヶ谷と竜ヶ谷に向って一斉に打って出た。 この方面の徳川勢は石川長門守康道と大久保七郎右衛門忠世の軍勢で、不意の夜襲に狼狽したものの乱戦奮闘して敵兵の悉くを討ち取った。 この城兵の突出を期に、徳川勢は一転して城への総攻撃に移った。本多忠勝、鳥居元忠らが二の丸を攻め取り、戸田康長らは的場曲輪に乗り込むと戦闘は掃討戦となった。やがて城内は徳川方の占有するところとなり、高天神城は落城した。 夜が明け、林ヶ谷の首を討たれた城兵の屍の中には城主岡部丹波守の遺体も混じっていた。武田方の軍監として籠城していた横田甚五郎尹松は乱戦を突破して尾根伝いに脱出、甲州へ逃れた。 高天神城の落城は武田の衰退を象徴する出来事であり、織田、徳川にとっては対武田戦最大の障害物が除かれたことになった。 翌天正十年、織徳連合軍は一挙に甲州めがけて進撃、武田勝頼を天目山に滅ぼしてしまった。 |
▲ 本丸と西の丸の中間鞍部に設けられた 井戸曲輪。奥に見える階段を上ると西の 丸跡に建てられている高天神社に出る。 |
▲ 城の北側から城址中央の井戸 曲輪に至る搦手門口の登山路。 |
▲ 高天神城の攻防に度々登場する国安附 近。画像は現在の菊川と国安橋である。 |
▲ 二の丸跡から搦手口の隘路を見下ろす。 |
▲ 本丸跡の城址碑。 |
▲ 二の丸下に本間、丸尾兄弟の墓碑がある。 |
▲ 天正二年の落城に際し、大河内伝左衛門は退去 を拒んだためにこの石牢に入れられていたが、七年 後に無事救出されたという。 |
▲ 城址の最西端、馬場平。ここから先は犬戻り、猿 戻りの難所といわれるが、武田方目付の横田甚五 郎は落城の日、ここから甲州へ逃れ去ったという。 |
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画像の撮影時期*2006/05 |