「白布の武将 大谷吉継」 作・ 管理人


四章、 北国戦線 

 案の定、この方面で反大坂の態度を鮮明にしたのは加賀金沢の前田利長であった。

 去年、家康によって大坂を追い払われるようにして帰国を強要され、しかも母芳春院を人質に取られるという屈辱を受けてまでも家の存続を第一として耐えてきた利長である。家康の巨大さと恐ろしさを身をもって味わっている。その家康に背くということは前田家の滅亡を覚悟しなければならない。お家第一が最優先であるならば大坂方への加担は前田家としてはあり得ないのである。
 父の利家は織田信長の家来として秀吉とともに幾多の戦場を駆け回り、後年加賀百万石といわれる大大名家の基を築き上げた。いわば創業のひとである。その後を継いだ利長は当然の如く父の築き上げたものを維持して行かねばならない。二代目の宿命である。先代が偉大であればあるほど二代目のまもるべきものは大きい。先代以上の器量の持ち主でなければつとまらないのだ。
 しかし利長は創業者の遺産のすべてを受け継ぐほどの器量に欠けていた。利長は利家の死後、大老と大納言の地位を引き継ぎ、大坂城にあって秀頼の傅役を勤めなければならなかった。これは秀吉の遺命でもあり、しかも利家は、三年間は大坂を離れずに自分の後を継ぐようにと遺言していたのである。
 だが、結果としては家康の圧力に屈して帰国し、大老職も秀頼の傅役も果たせなくなってしまった。これが利家であれば、すわ一戦かと天下が沸き立つところであろう。ところが利長はそうしなかった。悔しさを噛みしめながらも、家名だけは死守しなければと、家名の存続のみを自分に残された最後の使命とし、おのれの器量の限界を悟っていたのである。

 利長はただちに兵を集め、七月二十六日に金沢城を出発した。総勢、二万五千の大軍である。
 出陣の際、家臣団を前にした利長は、
 「前田家は関東のために働き、三成らの一挙には加担せぬ」
 ことを明言した。
 「二万余の兵力を持ちながら何も成さぬとあっては後々、内府殿の機嫌を損なうことは必定じゃ。加賀、越前の二国くらいは平定しておかねば無為無策の責めを追う羽目になろう。ことによっては、三成の居城である佐和山城までをも攻め落とす所存じゃ」
 あくまで家康に反抗しようと考えなかったことが戦後、百二十余万石という大雄藩になさしめたといえる。

 すでに大坂方による戦端は開かれている。
 毛利秀元、
 宇喜多秀家、
 吉川広家、
 長宗我部盛親、
 島津義弘、
 鍋島勝茂、
 小西行長、
 安国寺恵瓊、
 福原長尭、
 秋月種長、
 毛利秀包、
 太田一�吉、
 垣見一直、
 小早川秀秋、
 平塚為広
 ら四万の軍勢により、鳥居元忠以下千八百の拠る伏見城に対する攻撃が二十日より始まっている。
 さらに二十一日からは細川忠興の居城で、父幽斎が兵五百で守る丹後の田辺城に対しても
 小野木公郷、
 石川貞清、
 生駒正俊、
 小出吉政、
 杉原長房、
 毛利高房、
 川崎秀氏、
 谷衛友、
 藤掛永勝、
 川勝秀氏
 など一万五千の軍勢による攻撃が開始されている。
 こうした大坂方の積極的な攻勢は北国諸大名の動向に大きな影響を与えずにはおかなかった。大方は敦賀の大谷吉隆を中心として対前田戦線を形作るという様相を呈し、金沢以南の北国街道沿いの諸城のほとんどが表面上は大坂方に従うことになった。

 金沢城から南三里に手取川が日本海に流れ出ているが、この川から南は前田勢にとっては敵地となる。
 手取川から南二里のところに小松城があり、丹羽長重が三千の兵を集結していた。さらに四里南の大聖寺城には小早川家の家臣山口宗永が千五百の兵を集めていた。いずれも前田勢の南下に備えて籠城戦の構えをとっていた。
 越前国では北ノ庄城の青木一矩をはじめ槙山城の丹羽長正、安居城の戸田重政、丸岡城の青山宗勝ら総勢八千が前田勢の来襲に備えることになった。そして大谷吉隆は敦賀城に二千を結集した。
 その吉隆のもとへ大聖寺城から前田勢の南下を報ずる早馬が駆け込んできたのはすでに八月と月が改まっていた。
 「前田勢二万が小松の城を捨て置き、我らが大聖寺の城を囲まんとしておりまする。疾く後詰めの出陣を御願い致したく候う」
 使者は口上を伝え終わると疲労のあまりその場に突っ伏した。
 吉隆とともにいた嫡子の吉勝は、前田勢がはやくも越前と加賀の国境近くの大聖寺城まで迫っていると聞いていきり立った。
 「小松の堅城に手を付けず、わずか千余の大聖寺の城を囲むとは前田利長、小心にして卑怯な男よ。父上っ、先鋒はこの吉勝にお命じ下され」
 「吉勝、利長ごときにいきり立つでない。我らの真の敵は徳川家康である」
 と吉隆は逸る吉勝を制した。
 それにしても前田勢が大聖寺城まで迫っているとあれば猶予している間はない。吉隆はすぐに大坂へ急使を走らせて前田勢の南下を報せると、出陣の準備を家臣らに命じた。

 大谷勢二千は北ノ庄城の青木紀伊守一矩ら越前勢八千を味方に引き入れるために北国街道を猛進した。かりに越前勢を味方としても合わせて一万の兵力であるから前田勢の半数である。まともに衝突すれば苦戦は間違いない。しかし大谷勢二千に悲壮感は微塵もなかった。
 吉隆は平素より士卒と接するに慈愛と義を最も重んじていたので、いざ合戦となると大谷勢の団結の強さと不惜身命の戦いぶりは小勢ながら他の軍勢の比ではない。一人が五人を倒せば、二千の軍勢は一万の軍勢と同じである。皆、日頃の鍛錬はこれを眼目としていた。しかも、板輿の上にあぐらをかき、顔を覆っている白布をなびかせて獅子吼する吉隆の様は鬼神そのものであった。
 この大谷勢の強さは後日証明されることになる。
 その大谷勢二千が敦賀城を出撃したのは八月三日であった。
 
 その前に七月二十六日に金沢を出発した前田勢をしばらく追ってみよう。
 前田利長は弟利政の軍勢五千を加え、総勢二万五千の兵力で北国街道を南下、手取川を一気に渡河して三堂山に着陣した。
 ここで小松城を包囲するように二口、千代、今江の高所に兵を配し、砦の構築に取り掛かった。過去に加賀一向一揆の拠点となっていた砦跡である。二口砦には山崎長門、千代砦には前田良継、寺西秀澄、今江砦には奥村栄明、太田長知らが配された。
 この迅速な包囲線構築によって小松城の丹羽長重らは前田勢襲来の急使を城外に出すことができなかった。結果として敦賀に変報が届くのは大聖寺城が攻略された後になってしまうのである。
 だが、小松城は堅城である。周囲は沼地で大軍の布陣が不可能なのである。結局、前田勢は二口、千代、今江の各砦を拠点として遠巻きに包囲するしか打つ手がなかった。
 こうして五日ほどが無為に過ぎたとき、人質として江戸にいる芳春院から手紙が届いた。
 「内府殿にはいよいよ三成征伐を御決心なされ候。内府殿申すに、加賀大納言殿には北国一円斬り取り次第、との御諚に御座候。太閤様子飼いの面々も先陣を承り、はやくも上方に向かう軍勢もあるやに聞きおよび候。御家大事なれば、殿の御働き、ゆめ御油断あるまじく候」
 利長は大軍を率いて金沢を出陣しておきながら小松城を前にして無為に時をつぶしていることを母親に叱られた気分であった。しかも、関東勢がはやくも駆け上りつつあるというではないか。彼らに後れをとっては前田家の浮沈にかかわる。
 利長は急いで軍議を開いた。その結果、小松城に対しては三堂山、二口、千代、今江の各砦に監視の兵を留めておき、主力は越前国境近くの大聖寺城を攻略することになった。
 八月一日、横目に小松城をながめながら約四里ほど街道を南進して松山に本陣を置いた。
 この松山も永禄の頃に一向一揆の拠点となっていた砦跡である。大聖寺城から二里ほど東方に位置している。
 翌日、利長は大聖寺城の山口玄蕃允宗永のもとへ九里九郎兵衛、村井久左衛門を誘降の使者として派遣した。
 小早川秀秋の家臣である宗永は、
 「我らは関東方に付くも大坂方に付くも主君金吾中納言様の采配に従うのみ。国許からの指示を待って御返事申し上げる」
 と言を左右して、密かに前田勢来襲を報せる使者を敦賀へ走らせた。
 吉隆の率いる援軍が到着するまではなんとか時間を稼ごうとしたのである。
 しかし、この時間稼ぎは意外にも味方である小松城の丹羽長重の行為によって潰されてしまう。長重の放った伏兵が大聖寺城を囲む前田勢を襲ったのである。これがきっかけとなって大聖寺城の城兵と前田勢との間に戦いの火がついてしまい、宗永の思わぬ方向へ進んでしまうのである。
 翌三日、前田勢は大聖寺城に対して総攻撃を開始した。
 大聖寺城は、古くは加賀白山五院のひとつであった寺院の跡で、城名の由来となっている。南北朝の争乱期を経て戦国期には一向一揆勢の拠るところとなった要害である。城の北、西、東は大聖寺川とその支流が天然の外堀を成し、さらに城の周囲は湿地帯となって攻めにくくなっている。大手口は城の南側で、鐘ヶ丸と呼ばれる外曲輪で防御されている。本丸はこの曲輪と空堀で隔てられており、城内の最高所となっている。二の丸、三の丸は本丸の搦手に位置している。山口宗永が城主としてこの城に入ったのは二年前の慶長三年のことであった。
 前田勢の攻撃は大手口に集中され、とくに鐘ヶ丸の攻防は激戦となった。山口勢の奮戦も目覚ましいものがあったが、結局衆寡敵せず鐘ヶ丸はやがて陥落して前田勢は本丸へと殺到した。
 「玄蕃が首を今日中に晒すのじゃ」
 鐘ヶ丸の陥落にともない、利長も松山砦から本陣を進めて陣頭指揮を執り、息も継がせぬ勢いで本丸への突撃を命じた。
 激しい銃撃戦と斬り合いの末に城主山口宗永は嫡男修弘とともに自害して果てた。
 わずか一日の戦闘で大聖寺城は前田勢の占有するところとなったのである。
 吉隆が敦賀を発つのが大聖寺城陥落の日である。翌日には北ノ庄城に到着するのであるから、あと二日ほど宗永らが持ちこたえていれば自害せずに済んだかもしれない。
 大聖寺城を奪った利長は篠原出羽守一孝、加藤宗兵衛重廉、有賀秦六直政らを城の守備に残し、自らは本軍を率いて加賀と越前の国境を越え、細呂木の高所に布陣した。
 これが八月五日のことである。ここでしばらく北ノ庄城の青木紀伊守一矩を主力とする越前勢八千の動向を探ることにした。

 大聖寺城の山口宗永からの急報によって八月三日に敦賀城を出陣した二千を率いる大谷吉隆は翌四日、北ノ庄城に入った。
 出迎えた青木一矩は越前では最高禄の二十万石の大名であるが、内心では関東か大坂か去就に迷っている様子であった。前田勢が城下に乗り込んで来れば無抵抗で降伏してしまおうかとも思案していたのである。
 「前田勢は国境を越えて細呂木あたりに布陣しており、先鋒は丸岡城近くに迫っているとの報せでござる。敵は二万余の大軍でござれば、大坂からの援軍がなくばとても立ち向かえるものではござらん。拙者は刑部少輔殿が大坂方の大軍を率いて駆け付けてくれるものとばかり思うておったに」
 青木一矩は、わずか二千の軍勢と甲冑を身に着けず平装のままの吉隆を見て皮肉った。
 「これでは戦にならぬ」
 と一矩は思わず口に出してしまった。
 これが聞こえたのか吉隆の動きが止まり、
 「紀伊殿」
 と白布に覆われた頭がゆっくりと一矩の方を向いた。
 一矩は白布のわずかな隙間から赤黒くただれたような顔肌を見て、まるで童が鬼に出会ったかのように立ちすくんでしまった。
 「前田の二万や三万を退治するのに大坂の後詰めがなくばできぬと仰せか」
 吉隆の低い声音に一矩は言葉も出ない。
 「今よりこの城は秀頼様の御名によりこの吉隆が預からせてもらう。依存あるまいな」
 一矩は吉隆の異様な気迫に圧倒されて、
 「仰せのままに」
 とわが身より小禄の吉隆に指揮権を与えてしまった。
 一矩にとってはこの方が都合がよかった。敗戦となれば責任は吉隆にあって自分にはなくなるのであるからだ。
 しばらくして三成より密書が届いた。
 「伏見落城、援軍差し向け候、北国口の押さえ済み候わば美濃路に出られたく候」
 
 家康の重鎮鳥居元忠の籠城する伏見城は八月一日に落城した。
 三成は伏見落城後、軍勢を尾張に向けて伊勢路と美濃路の二方面から関東方の諸城を落としながら進撃させた。
 伊勢路は毛利秀元を大将に約四万余、美濃路は三成ら三万余の軍勢である。
 北国口の増援としては、
 伊予今治七万石の小川祐忠、
 淡路洲本三万三千石の脇坂安治、
 近江朽木谷九千五百石の朽木元綱、
 近江大津六万石の京極高次ら
 総勢約五千であった。
 わずか五千とはいえ家康との対決に備えるためには一兵といえども主力軍を削ることははばかられた。この状況下で三成が北国口への援軍派遣を決定したことは吉隆に対する友情の証であったのだ。
 だが、この五千の軍勢が後日、東西決戦の日に吉隆の生命を奪い、大坂方を敗北させるために一役かうことになろうとは神ならぬ三成にわかろうはずもなかった。

 吉隆としては五千の援軍を待って前田勢と対等に渡り合うつもりはなかった。できることなら謀計をもって前田勢の南進を押さえ、来るべき家康との決戦に兵力の温存を図りたかったのである。
 吉隆は嫡子吉勝に一軍を委ねて青山宗勝が千余で守る丸岡城へ前進させ、
 「伏見城が落城して大坂方の大軍が北国街道を駆け下りつつある」
 という情報を前田の陣内に広めさせるように指示した。
 数日の間、吉隆らと前田勢のにらみ合いが続いた。
 この間のことである。吉隆があれこれ思案に耽っていると急に北ノ庄城内が騒がしくなった。吉隆は側にいた湯浅五助に様子を見てくるように命じた。
 「府中近くの関所にて前田家の縁者で中川宗伴という者を捕らえて城内の牢に押し込もうとしたところ、にわかに騒ぎ立て、殿に会わせろと言って牢に入ることを拒んでおる由にござります」
 五助の報告を聞いて吉隆は一計を思い立った。
 「その男、以前に大坂で会うたことがある。連れてまいれ」
 中川宗伴は前田利家の娘婿で能書家として知られている。宗伴は、日ごとに大坂周辺に何万もの軍勢がひしめきつつあるのを見てそら恐ろしくなり、金沢へ疎開しようと北国街道を下ってきたところ、先の関所で捕らえられたのであった。
 吉隆の前に引き立てられたきた宗伴は憮然とした態度であったが、顔を上げて吉隆の姿を見ると驚きのあまり腰を抜かしてしまった。吉隆の身体は鎧の着用に耐えられないほどに皮肉が弱っている。頭部はいつものように白布で被い、鎧の代わりに鷹羽の紋を大きく染め抜いた白い陣幕を切り継ぎして身にまとっていたのである。その姿が宗伴にはおそろしく大きく見えたのである。
 「宗伴っ、前田に縁続きのその方、本来なればこの場でそのそっ首はねるところである」
 吉隆の一喝で宗伴は声も出ない。
 「ただし、わしの言う通りに書をしたためよ。さすれば命だけは助けてつかわす」
 宗伴は吉隆の言うがままに筆を動かした。その筆跡は宗伴独自のもので余人がまねのできるものではない。
 吉隆は宗伴に書かせた書を密書のかたちにして前田利長のもとへ届くようにした。
 内容は、
 「上方の大軍勢、関東勢を討ち平らげつつ北国口を駆け下りつつあり、敦賀、若狭の浦々にはおびただしき軍船浮かびて、これより加賀の浜へ押し寄せんと由々しき有様にて候」
 というものであった。

 細呂木の陣でこの密書を見た利長はその内容に驚いた。筆跡は間違いなく宗伴のものである。
 「海路、金沢に向けて大坂勢が動くぞ。このようなところでぐずぐずしておる場合ではない。即刻、陣を引き払い金沢へ引き返すことに致す」
 前田勢は一斉に北国街道を北に向かって動きはじめた。大聖寺城に配置した兵もすべてが撤収に移ったのである。
 ところがいざ引き返すとなると小松城の丹羽勢の存在が前田勢にとって障害となってきた。
 丹羽勢の動きは先の大聖寺城戦にもみられるように時折、前田勢の監視の目をくぐって城外に出戦して小競り合いを繰り返している。前田勢の金沢退却をみて丹羽勢が進路妨害に出てくるおそれは充分に予想された。
 八日夜、小松城南方の今江砦まで撤収した前田勢は一息に小松城の脇を駆け抜けようと夜明けとともに一斉に駆け出した。
 だが、半里も駆けぬうちに丹羽の伏兵に捕捉されてしまい、浅井畷と呼ばれるところで激戦となってしまった。
 利長は、殿軍の長連竜隊に多くの犠牲を払わせて、やっとのことで金沢にたどり着いたのである。

 この前田勢の突然の撤収に驚いたのは青木一矩らの越前勢である。
 「さすがは刑部殿、その名を聞いただけで前田の小倅、慌てて逃げ帰りおったわ」
 「戦わずして勝とはこのことよ」
 「刑部殿とともにいくさすれば勝利は疑いなしじゃ」
 などと越前勢の陣営では大谷勢と吉隆に対する態度が一変した。
 なかでも安居城主一万石の戸田武蔵守重政は吉隆が美濃へ転進する際に、その先鋒役を願い出たほどである。
 前田勢の撤収後、吉隆は落城荒廃した大聖寺城に木下宮内少輔、高木法斎らを配置して前田勢の再進出に備えさせた。また小松城の丹羽長重のもとへ上田主水正、寺西備中守、奥山雅楽助らを加勢として派遣した。
 こうして前田に対する手当を済ませた吉隆は、美濃路進出に備えて兵糧などの補給のために一旦敦賀に戻ることにした。
 吉隆が二万の前田勢を干戈を交えることなく退散せしめたという事実は、北ノ庄から北国街道を五里ほど南下した府中城にも聞こえていた。
 この府中城は遠江の浜松城主堀尾忠氏の父で豊臣三中老のひとりでもある帯刀吉晴が隠居料として与えられていた城である。城には家老の堀尾宮内が城代として赴任しており吉晴自身は浜松にいた。
 その城代の堀尾宮内、さきに吉隆が北ノ庄へ向かってこの城下を通過する際には、大坂方か関東方かの態度を鮮明にせず中立的立場で城下の通過を黙認していたのであるが、
 「大谷刑部、ただ者にあらず。北国一円、皆大坂に従う由。我らのみが抗せしも詮なきこと」
 と大谷勢が再び城下に入ると、すすんで降伏を申し入れた。
 先鋒の戸田武蔵守重政はこのことを、後から板輿に揺られながら本軍を率いる吉隆のもとへ自ら報告のために馬を駆った。重政には白布をゆったりとまとった吉隆の姿が陽に映えて神々しくもみえた。
 「敵将が自ら道を開けるは鬼神の如き武蔵守殿が先駆けするからじゃ。これからもわが軍勢の先駆け、おたのみ申す」
 吉隆は威に乗ずることなく常に控えめであった。
 先陣、先駆けを命ぜられることは武将として最大級の名誉なことなのである。
 「ありがたき幸せっ、この重政、ここに至りて一命を託するにたる御方にめぐり会えましてござりまする」
 重政は雑兵たちの目も気にせず平伏し、白く乾いた街道に大粒の涙を落とした。

 この頃、三成は小西行長、島津義弘の軍勢より一足先に美濃路を急ぎ、大垣城を接収して、ここを当面の拠点としていた。
 この大垣城から美濃国内の諸城に檄を飛ばして大坂方への加担を呼びかけ、
 岐阜城主織田秀信、
 竹ヶ鼻城主杉浦盛兼、
 長松城主武光忠棟、
 福束城主丸毛兼利、
 岩村城主田丸忠昌、
 高須城主高木盛兼、
 苗木城主川尻直次、
 八幡城主稲葉貞通、
 犬山城主石川貞清
 らがこれに応じてきた。
 一方、鈴鹿峠を越えて伊勢路を進むことになった毛利勢を主力とする軍勢は伏見落城後、毛利輝元の養子で若干二十二歳の毛利秀元を大将として吉川広家、鍋島勝茂、龍造寺高房、長宗我部盛親など三万余におよぶ軍勢で構成され、安国寺恵瓊と長束正家がその先鋒として八月五日に関へ進出している。

 こうした西軍(大坂方)の動きに比べて東軍(関東方)の動きは速やかである。七月二十五日に会津征伐から反転西上へと下野国の小山軍議で決すると即座に福島正則、細川忠興、池田輝政、浅野幸長、黒田長政、加藤嘉明らの反三成感情で結束する豊臣恩顧の諸将は東海道を競うように駆け上り始めた。
 三成が大垣城に入ったころには福島正則が自身の居城でもある尾張清州城に到着している。その他の諸将も続々と清州城に集結し、家康の到着を待つばかりという状況にあった。
 恵瓊らの向かった伊勢方面に対しても家康は従軍中の伊勢安濃津五万石の富田信高をいち早く帰国させ、籠城戦の準備に取りかからせた。城兵はわずか千七百余であるが意気盛んで、近くの松坂城主古田重勝も援軍を安濃津城に送り込んで東軍支持の態度を示していた。

 関へ進出した恵瓊らは毛利、吉川などの主力軍到着を待って安濃津城を攻略することにした。しかし、強力な統帥者を欠いた寄せ集めの軍勢の行動は遅々としていた。毛利秀元以下の諸軍勢が関に集結を終えるのはなんと八月二十日を過ぎていた。恵瓊らは十五日以上を無為に過ごしてしまうことになった。
 恵瓊はこうした西軍の漠然とした行動に比べて家康の対応の素早さと戦意旺盛な東軍諸将の行動を目の当たりにして、
 「この勝負、治部少の負けかも知れぬ。その治部少を担いでしもうたとは、わしも老いたものか」
 と愕然たる思いであった。
 三成とて東軍が下野国で反転西上に移ったという情報は直江兼続の通報によって知らされてはいた。しかし、その先鋒がすでに尾張にまで来ていようとは予想外であった。清州城には福島正則をはじめ細川、加藤、黒田、池田、浅野といった諸将が次々と到着している。
 三成は尾張で恵瓊らの伊勢方面軍と合流することを予定していたが、それは東軍勢の急進撃によって不可能となってしまった。今となっては織田秀信の岐阜城の守りを固めてこれに対応することとし、近江から美濃に向かいつつある島津義弘、小西行長、小早川秀秋らに大垣集結を急がせ、伊勢方面の西軍諸将にも伊勢平定後は美濃に向かうよう指示した。
 同様の旨は敦賀城にも伝えられた。
 兵糧、武具の補充を終えた大谷勢は二十二日に出陣することになった。

 美濃への出陣に先立って吉隆は久方ぶりで妻に会っておこうと思った。
 「それはよいことでござる。御台様もさぞ喜ばれることでござりましょう」
 老臣に先導させて吉隆は城内の奥へ足を運んだ。
 妻は気比御前と呼ばれている。敦賀の浜は気比の浜と古来より呼ばれており、その美しさにかけて土地の者たちからそう呼ばれ、慕われていた。
 吉隆と気比御前とのあいだには二男一女があった。男子は長男の大学吉勝と次男で木下姓を名乗る山城守頼継であり、二人ともこの戦いでは一軍の将として父吉隆を助けている。
 そして娘は信州上田城主真田昌幸の次男信繁(幸村)に嫁いでいた。その縁もあってか真田昌幸、信繁父子は上田城で徳川秀忠の西上軍三万八千を釘付けにして戦い抜き、ついには秀忠軍の関ケ原参戦を阻止することになる。
 吉隆はここ数年、数えるほどしか奥に足を踏み入れていない。病が妻に感染することを恐れてのことである。
 久方ぶりの来訪に気比御前は小娘のように胸が高鳴った。
 「国境でのいくさ、ご苦労様にござりまする。再び、ご出陣のご様子でござりまするな」
 「うむ、今度は美濃へ向かう」
 吉隆は妻を抱くことも、顔を見定めることもできなくしているこの病が憎かった。
 「聞きますと今度のいくさは天下をあげての大いくさとか、ご武運を祈っておりまする」
 お互いにあらたまって体面してみるとうまく言葉が出てこない。
 目の前に白布に包まれて痛々しく変貌している夫を見ているとなおさらである。なぜこうまでして男は戦いに行かねばならないのか。それを思うと恨みとも悲しみともわからぬ涙が溢れて言葉に詰まってしまうのであった。
 吉隆はしずかに言った。
 「わしの身体もこのとおりだ。そなたを悲しませるいくさもこれを最後としよう」
 気比御前は夫のやさしい言葉に耐えきれず、吉隆のふところに飛び込んで、しっかりとわが夫の身体を抱きしめた。
 「いかがした」
 忘れかけていた妻の温もりであった。
 「きっと、これが最後でござりまするな」
 「うむ、最後だ」
 吉隆も妻の肩を抱きしめた。
 「わしが佐吉の誘いに乗らなんだら、このいくさも無かったかもしれぬ。だが、佐吉の涙に男の進むべき道を教えられたような気がしての。ついには応じてしもうたのよ。佐吉がいて、秀吉様がいたから今日のわしがあるのだ。朽ち果てたこの身でできる最後の報恩のいくさだ。これでわしの業病も断ち切れるであろうよ」
 吉隆は何の因果で自身がこの病で苦しまねばならぬのか口惜しくてならなかった。しかしこの合戦に自分なりの正義を見出し、この戦いに生命を捧げることでこの宿業を断ち切ろうとするかのようであった。
 しばらく二人は抱きしめ合っていたが、
 「では、行くぞ」
 と吉隆はしずかに妻の腕を解いて立ち上がった。
 「ご武運お祈り申し上げまする」
 気比御前はこれが最期となるかもしれぬ夫の後ろ姿に手を合わせた。

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