「白布の武将 大谷吉継」 作・ 管理人
九章、 朋友
小早川、小川、赤座、朽木、脇坂の東軍への寝返りによって戦局はにわかに東軍優勢となり、大谷勢の全滅後、宇喜多、小西勢はほどなく潰走、宇喜多秀家と小西行長は余儀なく戦場を去った。 小西行長は四日後、伊吹山中で捕縛された。 宇喜多秀家は逃避行のすえ、薩摩へ逃れた。その後、島津家久は秀家をかくまったが、慶長七年の暮に徳川との関係修復に際して助命を条件に引き渡されてしまい、八丈島へ流罪となった。合戦時二十八歳で豊臣家大老職にあった青年武将も生涯の三分の二を絶海の孤島で暮らすことになろうとは夢想だにしなかったであろう。享年八十三歳とも九十歳であったとも伝えられている。 小西、宇喜多勢の潰走後、東軍の集中攻撃に笹尾山の石田勢もついに支えきれずに壊滅した。 最後まで戦場に残っていた島津勢も敵中を突破して戦場を離脱した。 南宮山の西軍勢も関ケ原における戦闘が東軍の勝利とみるやそれぞれ撤収をはじめた。 家康に内通していた吉川元春の思惑によって恵瓊の毛利参戦策は阻止されたのである。恵瓊は江北の山野を逃げまどい、洛中に潜伏しているところを捕縛された。 恵瓊と同じく南宮山に布陣していた五奉行のひとり長束正家は南宮山撤収後、居城の水口城に入ろうとしたがすでに徳川方の占有するところとなっており、死に場所を探すかのように蒲生郡中之郷の山里に落ちていった。徳川の追手が迫った日、豊臣家の勘定方を仕切ってきた大蔵大輔正家は慣れぬ手つきで自刃して果てた。 関ケ原における戦闘は未の刻過ぎには東軍勝利のうちにおさまり、再起を期して伊吹山中へ脱出した三成の耳にも東軍勢のあげる勝鬨が達していた。 三日後、伊吹山中を彷徨して木之本近くの古橋村に出た。三成は母方の菩提寺である法華寺の山門を密かにくぐった。 しかし、家康による三成追捕の触れはこの村にも回っていた。三成は村人らに災いの及ぶことを避けるために翌日、名主与次郎太夫の勧めに従って山中の岩窟に隠れることにした。ここで体力の回復をまって大坂へ向かうつもりだったのである。 ここで与次郎から佐和山城の落城と一族の滅亡を知らされた。 「して、大谷刑部少輔のその後は何か聞いておらぬか」 三成は吉隆の安否を確かめるすべもなく戦場を離れてしまっていたのである。 「はい、刑部少輔様は合戦の日に御自害なされた由にござります」 与次郎は消沈した三成を見るに耐えず、夕餉の粥を置くと静かに山を降りて行った。 「紀之介も、もはやこの世にはおらぬのか」 三成は一家、一族を失い、さらに年来の友を失って愕然とした。 家康討伐の義挙にはじめは反対しながらも協力を誓ってくれた吉隆の存在は三成にとって大きかった。 「おぬしがいたから、このいくさがやれたのだ」 三成は身体中から再挙の気力が抜けていくのを感じた。 「わしの働きもこのへんで仕舞いとしよう」 岩窟に隠れて三日目の朝、三成は田中吉政の一隊に捕縛され、大津城へ連行された。 小西行長、安国寺恵瓊も捕縛され、三人そろって大坂、堺を引き廻しのうえ京都に送られた。 十月一日、三人は六条河原で斬首、先に切腹した長束正家の首とともに三条橋に梟された。 父の意に従って関ケ原を離れた吉勝、頼継は帰国後、母を伴って山里に隠棲した。間もなく頼継は関ケ原で受けた傷がもとで病死してしまった。吉勝はひとり大坂へ出て秀頼に近侍、元和元年の大坂夏の陣にて戦死した。豊臣武士としての意地を貫き通した。 夏の陣で豊臣が滅び、その翌年、家康も他界した。 徳川による治世は盤石となり、天下は戦国から太平の世へと移ってゆく。関ケ原の山野も草木生い茂り、その後は何事もなく庶民のつましやかな生活が淡々と続いて、いつしか戦いから十六年の歳月が流れていた。 野山の空は高く澄み渡り、山の小路に映る樹木の影が秋の心地よい風を受けて静かに揺れている。 その小路を登って行くと、かつての敦賀城主大谷刑部少輔吉隆の最期の地となったところへ出る。 そこにはいつしか小さな塚が二つ盛られ、秋も深まる頃には毎年きまってそこに香煙が立つ。 この塚は関ケ原の戦後処理が一段落した頃に藤堂家によって築かれたものであった。藤堂仁右衛門の発願によるものであろうか、その仁右衛門も夏の陣で散り、すでにこの世にいない。 この日も塚の前に香煙がくゆらぎ、いくさで夫をなくし、子をなくした尼姿の女性が手を合わせていた。 (完) |