長谷寺
(ちょうこくじ)

                   豊川市牛久保町          


▲ 川中島合戦で山本勘助の戦死を聞いた念宗和尚が勘助の遺髪を埋めて
建てた墓で、遺髪塚とも呼ばれている。市指定史跡となっている。

山本勘助の覚悟

 ここ長谷寺には山本勘助晴幸の墓(市指定史跡)と勘助の残した摩利支天の像が伝えられている。
 この摩利支天像、三面六臂の摩利支天が四頭の猪の上に座しているというもので大きさは一寸三分(約5.5cm)という小さなものである。これは山本勘助が二十五歳の時に武者修行の旅に出て高野山に至った際に摩利支天の御堂に籠り、武芸上達を祈願したのであるが、七昼夜断食の末、夢中に弘法大師が現れて授けられたと伝えられているものである。
 この後、勘助はこの摩利支天像を守本尊として襟に掛け、四国、中国を歴遊、三十五歳の時にここ牛久保に帰郷(山本晴幸生誕地に関しては諸説あって定かでないが、ここでは当地の所伝によることとする)、養家先の大林勘左衛門宅(十五歳の時に大林家の養子になっていた)に戻った。天文三年(1534)のこととされている。
 ところが大林家に実子が生まれていたために勘助は大林家との縁を切り、再び旅に出たのである。小田原の北条家や駿河の今川家の門を叩いて仕官を求めたが容姿容貌(片目で色黒、手足が不自由)の醜さから断られた。ただ、甲斐の武田信玄のみが知行二百貫で召抱えてくれた。天文十四年(1545)であったとされている。この後の勘助の働きぶりから察するにこの時の喜びようが目に浮かぶのは私のみではないだろう。
 勘助は甲斐に旅立つ前に親交のあった長谷堂(現・長谷寺)の念宗和尚を暇乞いのために訪ね、肌身離さずにいた摩利支天像を託した。
「この後、どこぞの戦場で討死せぬともかぎりませぬ」
 と人手に渡ることを嘆いたという。また薙髪して道鬼入道と号した。
 後顧の憂えなく甲斐に旅立つ勘助の晴々とした顔が目に浮かぶようである。
 自身を見込んでくれた信玄に勘助は己の生涯を託すことになるのであるが、その覚悟のほどがうかがえようというものである。
 永禄四年(1561)九月十日、川中島の合戦で勘助は信玄の本陣を守るために越軍に突進、阿修羅の如く敵を斬りまくり、壮烈な討死を遂げた。齢六十二であった。
 合戦後、勘助の討死を聞いた念宗和尚は勘助の剃った髪を埋め、一基の塔を建てて供養した。境内の山本勘助の墓がこれである。

▲ 武運山長谷寺の入口には「山本勘助晴幸遺跡」の碑が建っている。
 ▲ 長谷寺本堂に安置されている山本勘助の襟掛本尊摩利支天像。
▲ 本堂内には山本勘助の迫力ある陶人形が飾られている。

▲ 長谷寺の南南東約200mには大林勘左衛門貞次の屋敷跡がある。勘左衛門は勘助の養父であった。
----備考----
画像の撮影時期*2007/09

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