川中島古戦場 勘助の墓
(かわなかじまこせんじょう)
(かんすけのはか)

                  長野県長野市松代町柴           


▲ 文化六年(1809)、松代藩家老鎌原重賢によって改築され現在に至る山本勘助の墓で
ある。改築当初は墓碑の頂部に屋根のような笠石が乗っていたが今は無くなっている。

本陣の危機、
      報恩のときなり

 永禄四年(1561)九月十日早朝、武田信玄は本軍八千を率いて海津城(松代城)を出陣、川中島八幡原に進出した。今頃は山本勘助の献策した「啄木鳥の戦法」の実行部隊一万二千が妻女山の上杉勢を攻撃しているはずであった。本軍はここ八幡原で妻女山を追われた上杉勢を迎え撃つという作戦である。

 ところが霧が濃く、周囲の状況が全く分からない。そこへ突如、上杉勢が襲ってきたのである。武田勢の陣形は未だ整っていない。このままでは総崩れにならぬとも限らない状況になりつつあった。山本勘助の啄木鳥戦法は上杉謙信によって完全に読まれ、上杉勢の方が早く八幡原近くに進出していたのである。

 山本勘助は自身の献策した「啄木鳥の戦法」がはずれたうえに、上杉勢の奇襲を招いてしまったことで覚悟を決めた。ここは身を盾にして本陣を守るべきときであると。
「お屋形さまに召抱えられて十八年、そのご恩に報いるはこのときなり」
 と浮き足立つ武田勢の中から山本隊が真っ先に上杉勢に向かって駆け出した。

 隻眼で片足はままならず、しかも色黒で不器量者と見られ、今川家では仕官を断られた過去がある。その勘助を信玄は召抱えてくれたのである。

 突入する直前に原隼人正種長から、
「主君の大事は今日のみにあらず。短慮の振舞いなされるな」
 と声かけられたが、
「過ぎ往くこと、流れるが如し。愚挙に非ず」
 と言い捨て、上杉勢の本庄、飯森、北条の隊に突入、手当たりしだいに斬りまくった。勘助の馬廻りで三河牛久保出身の大佛庄左衛門入道学心、諫早佐五郎入道了碩も長刀を振りかざして奮戦、暴れ回った。両人とも勘助と同じく入道姿の法師武者であったが、終には矢を浴び、本庄勢に討たれてしまった。そこへ上杉勢の柿崎和泉守景家の隊が突っ込んできて、苛烈な戦闘が続いた。

 やがて勘助の周囲の兵もほとんどが討たれ、終には勘助自身九ヵ所の傷を受けてしまった。さすがの勘助も一瞬動きが止まった。この隙に槍を繰り出したのが柿崎家臣の萩田与三郎、吉田喜四郎、河田軍兵衛、坂木磯八らであった。勘助、四方八方から繰り出される槍をかわしきれずについに落馬、坂木磯八に首を取られてしまった。

 勘助隊の生き残り十人ほどが勘助を討った敵を追いかけ、法師首をいくつか取り返した。いずれの首も血と泥にまみれ、どれが勘助なのか分からない。そこで勘助の胴をさがし、そこに合わせてみてこれだと分かったという。現在その地は「胴合橋」と呼ばれて残っている。

 勘助の墓はその後の千曲川の川筋の変化や諸事情により文化六年(1809)、現在地に建てられて今日に至っている。

▲ 「胴合橋」。勘助の胴と首を合わせた場所と伝えられている。八幡原史跡公園の南約900m(「そば蔵」と「おぎのや」の間)にある。

▲ 「勘助宮」。勘助討死の地と伝えられている。八幡原史跡公園の西約2.5km(南長野運動公園内西端)にある。石碑は昭和初年に建てられ、平成七年に現在地に移された。
----備考----
訪問年月日 2007年11月
主要参考資料 「甲越信戦録」他

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