松代城
(まつしろじょう)

                  長野県長野市松代町松代           


▲ 本丸への表門である「橋詰門」と「太鼓門」。平成の大普請と呼ばれる復元
工事では門、堀、石垣、土塁などが江戸期の松代城に近いかたちで復元された。

武田の城、
         そして真田十代の城

 松代城、というより戦国通には海津城といったほうが馴染み深い。しかし海津城と呼ばれたのは三百十余年の城史のうち最初の四十年間に過ぎない。その後は待城、松城、松代城というように城名の変遷があった。
 周知のようにこの城、つまり海津城は武田信玄によって北信の支配と上杉謙信の来襲に備えるために築かれたことに始まる。いつ頃築かれたかはよくわからないが、永禄三年(1560)には完成していたとされている。縄張は信玄が山本勘助に命じたと云われている。
 戦国期、戦いの城といえば山城もしくは平山城が常識であったが、信玄はこの城を戦いのためのみならず経世の城としての機能も持たせようとしたと思われる。城下町を形成し、北信経営の拠点とするために、不便な山の頂ではなくあえて平地をえらんだのではないだろうか。それは真田十万石の府城として明治まで機能し続けたことでもわかる。
 この海津城の最初の城将として入城したのは高坂弾正昌信である。永禄四年八月、はやくもこの城の最初にして最大の試練を迎えることになった。上杉謙信の率いる一万八千の大軍が信越国境を越えて善光寺方面に出現したのである。高坂昌信は直ちに甲府へ急を報せるとともに籠城戦に備えた。城の北側は千曲川が天然の濠となっているから戦いは南側からということになる。当然、城の構えもそのように築かれている。
 予想通り上杉勢は善光寺から東に進み、千曲川を渡って南進をはじめた。すわ、城攻めかと城兵は配置について上杉勢の来襲に備えた。ところが謙信は海津城には一顧だにすることなく素通りして妻女山に布陣したのである。謙信の目的はあくまで信玄との決戦にあったので城攻めによる兵の消耗を避けたのであろうか。
 その後も謙信は妻女山を動かず、信玄も二万の大軍を川中島に展開して決戦に備えたが、それでも謙信は動かなかった。やがて信玄は全軍を海津城に集結させ、山本勘助献策の啄木鳥戦法の実行に踏み切ったのである。
 こうした武田方の動きを妻女山の謙信は看破していた。城内から立ち上る炊煙の多さから武田の作戦を見破ったのだと云われている。

 ▲ 本丸東側の石垣。平成の大普請で復元された。
 川中島合戦の経過は別項(「川中島古戦場 妻女山」「同 八幡原」「同 典厩寺」「同 勘助の墓」)に譲るが、信玄は苦戦を強いられながらも終には上杉勢を川中島から駆逐することができた。この後、川中島地域の武田の支配は海津城を拠点として揺らぐことはなかった。
 高坂昌信は城将としてその後も北信の守りを固め続け、天正三年(1575)の長篠合戦の時にも上杉勢の進攻に備え、一万の軍勢で海津城を固めていたのである。
 天正六年、昌信病没、享年五十二歳であった。城は子の昌貞が引き継いだ。
 天正十年(1582)、武田氏の滅亡によって川中島には織田の先鋒森長可が進駐して海津城に入った。高坂昌貞は越後の上杉景勝を頼って城を離れた。森長可は勢いに乗って越後攻めに乗り出したが、途中で本能寺の変報を聞いて戦線を放棄、上洛してしまった。
 織田勢との戦いに備えていた上杉景勝は森長可の引き上げた隙に信濃へ出陣、川中島四郡と佐久、小縣を支配してしまった。海津城には村上景国(信玄によって信濃を追われた村上義清の子)を城代として置いた。この時、高坂昌貞も諸将のひとりとして海津城に入城している。
 上杉による信濃進攻に対して北条氏も信濃へ出兵した。高坂昌貞は真田昌幸とともにこの北条方へ通じ、内応のために海津城に留まっていた。ところが事は露見してしまい、昌貞は首を刎ねられてしまった。
 天正十一年九月、上条義春が城主となり、さらに天正十四年には須田満親が城主となった。

▲ 本丸に建つ「海津城址之碑」。大正十年(1921)、真田信之開府三百年を期に建てられた。

▲「太鼓門」。橋詰門とともに枡形を構成している。

▲ 戌亥隅櫓台。現在は展望台となっている。
 慶長三年(1598)、上杉氏の会津移封によってこの地方は豊臣家の蔵入地となり、田丸直昌が城主となった。その後直昌は徳川家康の命により岩村城に移り、海津城には森忠政が十三万余石で入った。長可が仕方なく手放した城に再び戻ることができたのである。
「この日を待っていたのだ」
 ということで忠政は城名を「待城」と改めたと云われている。この年慶長五年(1600)は関ヶ原合戦の年である。忠政は徳川秀忠軍に属して上田城の攻撃に参加した。
 慶長八年、森忠政は美作津山十八万石に加増移転して、家康六男の松平忠輝が十二万石で入城した。城名を「松城」に改めた。慶長十五年、忠輝は越後高田藩主となり、松城には城代がおかれた。城代には忠輝の家臣花井吉成、そして子の義雄と二代続いた。この花井父子は川中島の灌漑用水の整備に力を尽くしたことで知られている。
 元和二年(1616)、大坂夏の陣の不手際を理由に忠輝が改易となり、花井義雄は斬首となった。
 その後、城主は松平忠昌、元和四年には酒井忠勝と変わった。
 元和八年(1622)、上田から真田信之が移封されてきた。以後、この城は明治に至るまで真田氏が十代続くことになる。城名が「松代城」となったのは三代幸道の時代、正徳元年(1711)のことであった。
 江戸期の松代藩は千曲川との戦いであったともいえる。度重なる洪水によって家屋、田畑への被害はその都度甚大で、城そのものも浸水したり石垣が崩れるなどしている。
 宝暦二年(1752)、千曲川の瀬替えと呼ばれる流路変更の大工事が完了した。もはや千曲川を城防御のための濠とする必要はなくなっていたのである。
 それでも洪水による災害は城下と庶民を苦しめ続けた。それに加えて大地震にも見舞われ続け、松代藩はまさに災害との戦いの歴史であったともいえよう。
 慶応四年(1868)、十代藩主幸民(ゆきもと)、朝命に従い甲府へ出兵。その後藩兵は越後、会津へと転戦、三千余の兵を送り出した。戦死52名と記されている。
 明治二年(1869)版籍奉還、同四年廃藩置県、同五年廃城となった。

▲ 本丸内から見た「北不明門」。

▲北不明門とともに枡形を構成する枡形門とその続き塀。

▲ 外側から見た本丸東側の石垣。

▲ 本丸東側に復元された二の丸と土塁。

▲ 本丸の東不明門とその前橋。

▲ 本丸南側の内堀と橋詰門。
----備考----
画像の撮影時期*2007/11