川中島古戦場 妻女山
(かわなかじまこせんじょう)
(さいじょさん)

                  長野県長野市松代町清野          


▲ 妻女山。直下を上信越自動車道が通っている。「甲越信戦録」には
上杉勢の諸隊はこの妻女山を囲むようにして山麓に布陣したとある。

甲越両軍、
       川中島に会す

 永禄四年(1561)八月十四日、上杉謙信(この時期は上杉政虎と名乗っている)は一万八千(甲陽軍鑑では一万三千)の軍勢を率いて春日山城を出陣した。目的地は北信川中島である。
「此度こそ…」
 謙信の胸には今までになく強い決意がみなぎっていた。いうまでもなく相手は武田信玄である。

 前年八月に謙信は関東へ出陣し、今年三月には北条氏康を小田原城に追い詰め、さらに鎌倉に於いて関東管領就任の儀式を行った。この間、信玄は北条に味方して碓氷峠から西上野に進入、また越中の一向宗徒を煽るなどして謙信の後方を撹乱していた。さらに信玄は信越国境に近い野尻湖にまで兵を進め、割ガ嶽城を落とした。そこから春日山城まではわずか一日の距離である。
「どこまでわしの邪魔をするのか」

 十五日、牟礼(飯綱町)に達した謙信は兵糧部隊を善光寺横山城に向かわせ、自らは本軍を率いて布野(長野市柳原)で千曲川を渡って南へと進んだ。可候峠(そろべくとうげ)を越え、海津城(松代城)を右手に見ながら通過した。この時、直江大和守が海津城攻めを進言したが謙信は笑って、
「このような城、捨ておけ」
 と問題にしなかったという。

 十六日、謙信は妻女山を本陣とし、山の周囲に軍勢を配置して陣取った。ここからは川中島全体はもとより、海津城の様子も俯瞰できた。

 海津城の高坂弾正昌信は狼煙をもって謙信来たることを甲府に報せた。この狼煙による伝達は「飛脚篝火」と云われ、約二時間ほどで甲府に届いたという。

 武田信玄は直ちに陣触れして十八日には躑躅ヶ崎館を出陣した。川中島に至るころには二万余の軍勢になっていた。

 信玄が川中島に現れたのは二十四日で、茶臼山(長野市篠ノ井岡田)に本陣を置いた。武田の軍勢は川中島に展開して千曲川の北岸に二十六段の備えで布陣したといわれている。

 妻女山の上杉勢は越後への退路とともに善光寺に置いた兵糧部隊との連絡も絶たれたかたちとなった。これでは百戦錬磨の越軍といえども動揺の色は隠せない。

 しかし大将謙信は詩を吟じ、七弦琴を奏して動ずる気配もない。宇佐美定行と直江実綱は、
「このままでは敵の勢いに呑まれて士気は衰え、さらに兵糧は十日以上はもたぬ有様、何とぞ越後から後詰の援軍を呼び寄せては如何かと」
 と謙信に進言した。ところが謙信は、
「それだけの兵糧があれば慌てることはない」
 と悠然としている。直江はさらに問う。
「ならば、われらがここを動けぬことをよいことに信玄めが越後へと攻め入ったならば何となされまするや」
 謙信は、
「その時は甲州へ打ち入るまでよ」
 と答えたという。これを伝え聞いた越軍士卒の動揺はおさまり、勝利を確信したと伝えられている。

 両軍の対峙は六日間続いた。二十九日、信玄は陣を解いて全軍に海津城入りを命じた。一向に動く気配を見せぬ謙信の胸中が計り知れず、陣を解くことで謙信の出方を見ることにしたのであろうか。

 さらに十日経っても謙信は妻女山を動かなかった。海津城の信玄はこの局面を打開するために諸将の意見を聞いた。信玄に焦りが見えたというようか。

 この海津城の軍議で山本勘助の説くところの「啄木鳥(きつつき)の戦法」が採用された。啄木鳥が虫を捕るために木をつつき、その反対側に這い出したところを捕食するのに似たところからこう呼んだのである。つまり軍勢を二分して一隊を妻女山に向かわせ、残る一隊が川中島に出て山を逃げ降りてくる上杉勢を捕捉殲滅させるという作戦なのだ。

 海津城では直ちに妻女山奇襲隊が編成され、その準備が進められた。兵力は一万二千、率いる武将は高坂昌信、飯富虎昌、馬場信房、小山田昌時、同じく信重、甘利清晴、真田幸隆、相木政友、芦田幸成、小幡信定らであった。残る八千の兵は信玄自ら率いて夜明け前に千曲川を渡り、川中島へ布陣するのである。城内は出陣準備のためにあわただしくなった。

 妻女山の謙信がこうした海津城の変化を見逃すはずはなかった。夕刻になって城内から多くの炊煙が立ち昇っているのである。謙信は直江と甘粕近江守を呼んで、
「今夜、夜打ちあり。わが軍を川中島に押し出し、挟み撃ちにする策であろう。われらは篝火、旗はそのままにし、密かに山を降りて川中島に出る。兵には明日越後に帰陣、敵が行く手を阻めばこれを打ち破りて善光寺に集結すべし、と伝えよ」
 と命じた。

 十日子の刻(午前1時頃)、海津城から妻女山奇襲隊が出発した。

 上杉勢は丑の刻(午前2時頃)、密かに千曲川を渡り、川中島へ出た。直江実綱は小荷駄隊を率いて犀川を渡らせ、自らは丹波島(長野市丹波島)に陣取った。甘粕隊は兵千をもって妻女山奇襲隊の渡河を待ち受けるために北岸の東福寺辺りに陣取った。

 この時、謙信が千曲川を渡った場所は「甲陽軍鑑」では雨宮の渡しであったと記されている。

 一方の信玄は寅の刻(午前4時頃)に海津城を出て千曲川を渡り、川中島八幡原へと駒を進めた。


 「上杉謙信槍尻之泉」。妻女山登山道の途中にある。謙信が槍の尻で地面を突くと泉が湧いたと伝えられている。

▲妻女山松代招魂社。戊辰戦争の戦死者が祀られている。かつて謙信が本陣とした場所と伝えられている。




「鞭声粛々夜河を過る…」有名な頼山陽の詩である。謙信は妻女山から川中島に移動するにあたり、武田方に気付かれぬように人馬ともに物音をたてずに千曲川を渡った。その渡河地点がここ雨宮の渡しであったと云われている。現在は千曲川の流れも変わり、かつての渡し跡には頼山陽直筆の詩碑が建っている。



----備考----
訪問年月日 2007年11月
主要参考資料 「甲越信戦録」他

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