小田原城
(おだわらじょう)

                   神奈川県小田原市城内            


▲ 小田原城天守閣。昭和24年(1949)から石垣の積み直しが実施され、
昭和35年(1960)に江戸期の天守閣を模して鉄筋コンクリートにより復興された。

北条氏五代
      百年の堅城

 現在の小田原城址公園に見られる遺構や復興天守、復元された枡形門などは江戸時代の小田原城の姿である。しかし、小田原城の歴史は北条氏の時代を抜きにしては語ることはできない。
 北条氏が小田原に拠る以前、小田原城は西相模を支配する大森氏の居城であった。大森氏が小田原城を築いた時期は定かでないが、享徳の乱(1455-83)の頃とみられている。場所は現在の城山と呼ばれる地域であった。大森氏は頼春(岩原城)、憲頼、成頼、氏頼、実頼と続いた。
 大森氏最後の城主であったのは、一般的には実頼の弟藤頼であったと言われている。この頃、伊豆を平定した伊勢新九郎盛時こと北条早雲が小田原城の攻略に乗り出してきた。時期は一般的には明応四年(1495)二月といわれているが、最近では明応七年から文亀元年(1498-1501)にかけてのこととみられている。
 早雲が小田原城を攻め取る際に「火牛の計」を用いたということがよく知られている。早雲の小田原城奪取の伝説を簡単に追うとこうなる。まず、小田原城主大森藤頼と昵懇の間柄となり、やがて鹿狩りを口実に勢子を大森領の箱根山中に入れたいと申し出たのである。藤頼は疑うこともなく快諾した。早雲は勢子数百人を湯元や石橋周辺にまで進めた。この勢子たち、実は早雲選りすぐりの精兵であったのだ。夜に入ると、千頭の牛の角に松明を結わい付け、石垣山など箱根の山々に追い放った。小田原城内では西の山々に無数の松明が明滅している様を見て仰天、そのうち城下にも火の手が上がり、法螺貝や鬨の声が夜空にこだました。すわ大軍の来襲と思い込み周章狼狽する城内に早雲とその精兵たちは突入、あっという間にしろを乗っ取ってしまったのである。藤頼は岩原城に逃げ、さらに真田城に逃れて自刃した。
 と、北条記などの軍記物や多くの早雲伝記には書かれている。無論、これはあくまで伝承であり、後世の創作であるとまで言われている。最近では大森氏が山内上杉方に寝返ったために、扇谷上杉方であった早雲がこれを討伐したのであるとみられている。
 ともあれ、小田原城を手に入れた早雲は相模経略を進めながら、子の氏綱を小田原城主とした。永正十三年(1516)、早雲は三浦氏を滅ぼして相模を平定、同十五年に家督を氏綱に譲り、同十六年に没した。六十四歳または八十八歳であったといわれている。
 正式に北条氏を称したのは氏綱の代からで、以後氏康、氏政、氏直と続いた。城の改修も進められ、本丸も現在の位置に移されたとみられている。
 二代氏綱は武蔵南部から下総にかけて版図を拡大、今川氏とも争うなどして戦国大名としての地位を確立した。天文十年(1541)病没、五十五歳であった。
 三代氏康は天文十五年(1546)に扇谷上杉氏を滅ぼし(河越夜戦)、同二十年に関東管領上杉憲政を越後に追放、そして古河公方の外戚となって関東一円に支配力を及ぼした。
 永禄三年(1560)、氏康隠居して四代氏政が当主となった。この翌年、越後の長尾景虎(上杉謙信)が小田原城を攻めて来たが、攻略できずに引き返している。この頃には改修に改修を重ねてきた小田原城が難攻不落の城塞となっていたことを物語っている。
 永禄十二年(1569)には甲斐の武田信玄も小田原城を攻撃してきたが、これも撃退している。

▲ 昭和9年(1934)に復興された二の丸平櫓。小田原城の復興、復元のさきがけとなった。
 この後、北条、上杉、武田相互の同盟と敵対がその時々の情勢によって変転してゆく。戦国大名にとって国内の治世のみならず、高度な外交戦略の能力も要求されていたのである。北条氏の版図も氏政の巧みな舵取りによって天正十三年(1585)頃には相模、伊豆、武蔵、下総、上総、上野そして下野、常陸、駿河にまで及んだ。
 天正八年(1580)、氏政は嫡男氏直に家督を譲ったがその後も実権は握り続けた。
 天正十七年(1589)十二月、天下統一を進める豊臣秀吉の上洛要請に氏政の行動が鈍った。業を煮やした秀吉は従属の意思なしと断じて諸大名に追討の陣触れを発した。世にいう小田原合戦である。
 北条氏も直ちに十万の軍勢を動員して国内の諸城を固めた。このうち二、三万が小田原城に籠城したという。
 翌年三月、合戦は駿河・伊豆の国境における戦闘を皮切りに始まり、四月には小田原城が包囲された。以後約三ヵ月に及ぶ攻防戦が続く。この間に石垣山城が築かれ、また関東各地の北条方の諸城も次々に落とされ、二十二万といわれる豊臣軍が小田原城の包囲に集結した。
 いかに堅城とはいえ、戦う将兵が一丸となっていなければ何にもならないのだ。主戦か降伏かの評定が続いたが、六月二十四日ついに氏直は降伏を決意した。七月五日に城を明渡し、氏直は高野山へ追放となった。主戦派であった氏政と弟氏照は十一日に切腹、ここに北条五代百年の幕が閉じられた。
 ちなみに高野山へ追放された氏直は翌年には許されて秀吉に出仕、一万石を与えられた。氏直はほどなくして病死したが、その所領は叔父氏規の嫡男氏盛に相続され、河内狭山一万石の大名として北条氏は明治まで続いた。
 小田原合戦後、小田原城に入城した秀吉は徳川家康の関東移封を公表し、小田原城主を徳川譜代の家臣大久保忠世に命じた。
 大久保忠世は土塁と空堀から成る小田原城を石垣造りの近世城郭に改修をはじめた。文禄三年(1594)、忠世没して嫡男忠隣が継ぎ、六万五千石を領した。
 慶長十九年(1614)、忠隣は家康や幕府に対する独善的な態度が災いしてか、突如改易となり、小田原城は幕府直轄の番城となった。
 元和五年(1619)、阿部正次が五万石で城主となったが同九年に転封となり、再び幕府直轄となった。
 寛永九年(1632)、小田原藩が復活されて稲葉正勝が八万五千石で入城した。稲葉氏は正則、正通と三代続き、小田原城の改修と城下町の整備が進められた。
 貞享三年(1686)、稲葉氏の転封により小田原藩主となったのは大久保忠世の五代目忠朝であった。十一万三千石を領して十代続き、明治に至った。
 ▲ 本丸と二の丸の間の内堀跡。現在は花菖蒲が植えられ、本丸側の法面(右側)にはアジサイが植えられている。花咲く季節に訪れるのも一興である。
▲ 二の丸から本丸への入口「常盤木門」。昭和46年(1971)復興の枡形門である。

▲ 本丸に復興された天守閣。付櫓・渡櫓を設けた重厚な造りで、いかにも関東の守護神といった風情である。

▲ 天守閣の北側には関東大震災(大正12年/1923)で崩壊した石垣が転がっている。

▲ 二の丸の正門である「銅門(あかがねもん)」。平成9年(1997)の復元である。

▲ 馬屋曲輪から見た銅門枡形。

▲ 馬屋曲輪から馬出門へ。この門も土塀で囲まれた枡形構造となっている。

▲ 「馬出門」。平成21年(2009)に復元された。

▲ 小田原駅西口に建つ「北条早雲公」の像。火牛の計にちなみ角に松明を結び付けた牛とともに馬上采配を振るう早雲公である。

▲ 小田原駅東口繁華街の路地の一画に残り続ける「北条氏政・氏照の墓所」。正面中央の二基の五輪塔がそれで、右が氏政、左が氏照のものと伝えられている。

▲ 北条氏時代の小田原城の遺構である「小峯の大堀切」。堀底は深さ12bといわれ、全国屈指の堀切遺構である。

▲ 堀切の遺構は国指定史跡として保存されている。徒歩による堀底の散策は可能である。
----備考----
画像の撮影時期*2009/11

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