石垣山城
(いしがきやまじょう)

                   神奈川県小田原市早川           


▲ 石垣山城の本城曲輪(本丸)北面の崩壊した石垣跡。右側の
高い場所が本城曲輪で、左側の低い広場は二の丸である。

太閤が一夜城に
       小田原勢肝を潰す

「天下統一の総仕上げじゃ」
 天正十八年(1590)四月六日、小田原攻めの本軍三万五千を率いて箱根湯本の早雲寺に本陣を置いた豊臣秀吉はこの日、ここ笠懸山(石垣山)を視察した。
 ここからは小田原城の様子が丸見えであり、味方包囲軍の布陣状況も手に取るように分かる。すでに十数万の軍勢が小田原城を包囲して陸海上を埋め尽くしつつあった。まさにここは最高指揮官の指揮所にはもってこいの場所であった。
「よしっ」
 秀吉はここに陣城を構築することを命じた。即断即決である。しかも山自体が石材に富む山質であったから総石垣で築くことを命じた。後に石垣山と呼ばれるようになったのはこのためである。
 いかに天下の堅城小田原城が相手とはいえ、石垣造りの本格的な築城を思い立つとは、さすがに頂点を極めんとする秀吉の勢いというものが感じられる。築城に動員された人足が四万人と言われているのもすごい。
 工事は昼夜兼行の突貫工事であったことは言うまでもない。しかも本丸部分には御殿と天守閣まで建て、そして茶亭まで設けたというから、陣城の枠を超えたもので、居城としても遜色ないものであった。
 完成直前の六月二十日には淀殿をはじめとする秀吉の側室や侍女衆が石垣山に到着し、戦場であるはずの陣城が一時に華やいだという。千利休も城内の茶亭で茶会を催している。
 六月二十六日、城は一応の完成をみた。八十日足らずの工事であった。
「木を切り払え」
 の掛け声と共に城の周囲の樹木が一斉に伐採された。小田原城の籠城軍を驚かせる演出である。
 一夜にして総石垣の白亜の城が眼前に出現したのであるから北条方籠城軍の驚愕ぶりは想像を絶するものであったろう。しかも石垣造りの城を目にするのも大半の兵にとっては初めてであったのだ。関東にはまだ石垣造りの城は無かったからである。軍記物に、
「小田原勢肝を潰し、こは関白は天狗か神か、かように一夜の中に見事なる屋形出来けるぞや方々」
 とあって、籠城軍の狼狽ぶりがうかがえる。謙信や信玄の城攻めを撃退したつわものらも、今度ばかりはと臍を噛んだに違いない。

▲ 井戸曲輪。湧水地の四面を石垣で囲むという陣城とは思えない大規模な施設となっている。
 石垣山城が完成して秀吉がここを本陣とすると、豊臣方包囲軍の諸将が様々な思いを胸に足を運び、秀吉の指示を仰いだ。奥州の伊達政宗も天下の大勢には抗えず、懊悩の果てにこの石垣山城の土を踏んだひとりであった。
 今井に布陣(今井陣場)する徳川家康が石垣山城へ登って来たとき秀吉は、
「関東は徳川殿に進ぜよう」
 と眼下の小田原城を眺めながら二人して連れ小便したという。いかにも秀吉らしい逸話である。
 七月五日、ついに北条氏直は降伏を決断して小田原城は開城となった。
 戦後、石垣山城は小田原城主となった大久保忠世の預かりになったというが、どのように維持され、いつ廃城となったのかは分からない。戦いが終われば用済みとなるのが陣城である。合戦後数年を経ずして放棄されたものであろうか。
 ▲ 城址入口には国指定史跡を示す「石垣山一夜城歴史公園」の石碑が建っている。
▲ 駐車場から城域に踏み入るとすぐにこうした崩れかかった石垣が現れ、訪れる人を圧倒する。これは南曲輪東端の高石垣跡である。

▲ 二の丸跡。本城曲輪(本丸)の北側に連なる曲輪である。

▲ 二の丸北端の櫓台跡。

▲ 本城曲輪(本丸)。

▲ 本城曲輪南端の天守台跡。

▲ 本城曲輪に建つ「史跡石垣山」の石碑。以前(30年前)と違う場所に建っていた。

▲ 南曲輪跡。城の東口(大手)を扼している。

▲ 本城曲輪から小田原市街を望見。小田原城が肉眼で確認できる。
----備考----
画像の撮影時期*2009/11

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