今井陣場
(いまいじんば)

                   神奈川県小田原市寿町4丁目            


▲ 今井陣場跡。この石碑は大久保氏七代藩主忠真が撰文、
家臣岡田左太夫光雄の揮毫によるもので、天保七年(1836)に建て
られた。石碑の背後に建つ社殿は神君家康公を祀る東照宮である。

家康、決着の陣場

 この陣場跡は天正十八年(1590)の小田原合戦の際に徳川家康が陣所としたところである。
 この戦いで家康が居城である駿府城を出陣したのはこの年の二月十日で、その兵力三万といわれている。二十四日、駿豆国境長久保に布陣して豊臣秀吉の到着を待った。
 三月二十九日、秀吉の軍勢約四万とともに北条方の山中城をその日のうちに落とし、徳川勢は秀吉の先鋒となって箱根を越えた。
 箱根越えに際して徳川勢は三手に分かれて進撃、足柄城や鷹ノ巣城などを落としつつ小田原に迫った。家康は箱根の宮城野から進み、四月三日には小田原城の北、久野諏訪の原に着陣した。
 翌日、家康は移動して酒匂川に近い今井村の土豪柳川和泉守泰久の屋敷に入ったという。
 今井村に布陣した家康は周囲(東西一町半/約170m、南北二町余/約220m)を土塁と堀で囲み、陣城を構築した。これが現在、「徳川家康陣地跡の碑」の建つ一帯である。小田原城の東口を押える位置に布陣した徳川勢は北条方の出城、篠田曲輪などを攻め立てた。以後、小田原開城までの百十日間ほどをこの陣城を拠点として戦った。
 また徳川勢は包囲戦を続けると同時に鎌倉や江戸方面にも兵を進めて四月二十一日に玉縄城を、翌日には江戸城を開城させている。
 徳川家と北条家は天正十年(1582)の甲州若神子の陣における和議で姻戚となっていた。北条氏直のもとに家康の娘督姫が嫁しているのである。にもかかわらず何故に家康は北条攻めに積極的であったのだろうか。
 天正十二年(1584)の小牧・長久手合戦の際に、北条氏は家康に援軍を出さなかった。これがもとで家康の北条氏に対する不信感が大きなものとなり、最終的にはこの戦いに際しても秀吉と北条氏の仲立ちをすることもなく、
「滅びてしまえ」
 と言わんばかりに傍観を決め込んでいたのだとも言われている。
 この当時の北条家の当主は氏直であったが、隠居した氏政の力が北条家の進路を大きく左右していたことも事実である。小牧・長久手合戦の出兵拒否も氏政の指示であり、今回の秀吉の上洛要求を蹴ったのも氏政であったようだ。言い換えれば、この戦いは家康と氏政の戦いでもあったのだ。
 七月五日、氏直は主戦派の父氏政や叔父氏照らを説得、家康の陣場に対して自らの切腹と城兵の助命を条件に降伏を願い出た。

▲ 陣場(陣地)跡の碑の前に立てられた説明板。石碑自体が小田原市の指定文化財(建造物)となっている。
 氏政に対する恨みはあっても氏直はわが娘婿である。家康は直ちに秀吉に報告して戦闘の停止を申し出、小田原城の接収に取り掛かった。
 十一日、氏政、氏照が切腹した。氏直は死を免ぜられて高野山へ追放となった。
 家康にとって今井陣場は氏政との決着の陣場であったといえる。
----備考----
画像の撮影時期*2009/11

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