駿府城
(すんぷじょう)

百名城

               静岡県静岡市葵区駿府公園      


▲ 駿府城二ノ丸に復元された巽櫓と東御門。巽櫓が平成元年
(1989)、東御門が平成8年(1996)に木造建築によって完成した。

大御所家康の居城

 駿府は今川氏が駿河国の守護となって十代二百三十年続いた府城の地である。今川氏は戦国期には駿河、遠江、三河を領する戦国大名として勇名を馳せた。

 にもかかわらず、現在駿府の地を訪れても今川時代の繁栄を物語る何者もない。強いて挙げるならば今川氏が詰め城として築いた賤機山城跡くらいであろうか。それほどに永禄十一年(1568)十二月の武田信玄の駿河進攻における駿府の破壊が徹底的なものであったといえる。しかも信玄は駿河支配の拠点を清水に置き、江尻城を築いたために駿府は廃墟のまま捨て置かれた。というより、徳川家康との遠江における抗争に忙しく、駿府の復興に専念できなかったといえるかもしれない。

 その遠江における武田と徳川の抗争は天正九年(1581)の高天神城の落城まで続いた。

 翌天正十年、武田の勢威も長篠合戦(天正三年)の大敗後この頃には地に堕ち、織田信長と徳川家康は共同で武田討伐の軍を発した。織田勢は信濃路を、徳川勢は駿河を目指して進撃を開始した。徳川勢は駿河から甲斐に攻め込む作戦である。

 家康が浜松城を出陣したのが二月十八日で二十一日には駿府に陣を構えた。途中の武田方の諸城砦は次々と落城して、十年以上にわたる武田との戦いが嘘のように片付いてしまった。

 家康は江尻城の穴山信君を誘降し、案内役にして甲州へ向かった。三月十一日、武田勝頼は天目山麓(景徳院)に滅んだ。信長は家康に駿河を与えた。その信長、六月に本能寺の変で自刃。戦国の様相はこの数ヶ月で目まぐるしく変転した。

 信長亡き後、家康は甲斐、信濃を平定して三、遠、駿、甲、信五ヶ国の大名となり、天正十三年(1585)に駿府城の築城を開始した。そして翌天正十四年十二月四日に家康は浜松城から正式に駿府城へその居城を移した。駿府城は五ヶ国統治の城となったのである。

 浜松城は家康の喜怒哀楽のすべてが染み付いた城である。浜松城を去る日、家康の脳裏には様々な光景がよぎり、感無量の思いであったに違いない。

 居城を移した後も駿府城の普請は続けられ、天守閣が完成したのは天正十六年の五月であった。

 天正十八年(1590)二月十日、家康は小田原征伐の先鋒として駿府城を出陣した。七月、小田原城落城。論功行賞により家康には五ヶ国に代わり関八州が与えられた。

 家康は駿府城に戻ることなく、八月一日に江戸城に移った。駿府在城はわずか三年と三ヶ月であった。

 家康の後、駿府城に入ったのは秀吉股肱の臣中村一氏で十四万五千石であった。

 慶長五年(1600)関ヶ原合戦後、中村氏は伯耆米子に加増移封され、駿府城には徳川譜代の内藤信成が四万石で入った。

 慶長八年、家康は征夷大将軍となり、同十年には将軍職を秀忠に譲って駿府城を隠居の城と定めた。

 将軍職を退いた者を大御所という。これは古来からそう呼ばれていたのであるが、やはり大御所といえば家康の代名詞のようになっている。家康は大御所の隠居城として駿府城の改築を慶長十二年(1607)二月からはじめた。工事は天下普請で行われ、遠江、三河、尾張、美濃、越前の諸大名が動員された。

 現在、我々が目にする駿府城跡はこの慶長期のものである。

 家康が駿府城を隠居城としたのはいうまでもなく大阪城の豊臣勢力を意識してのものであったと考えられよう。江戸城を守るための前衛ともなり、天竜川、大井川、安倍川には橋を一本も架けさせなかったのもそのためである。

 家康は工事開始の年の七月には駿府城に移った。

 ところが十二月二十二日に奥女中の失火によって工事中の天守閣をはじめ本丸の建物のすべてが焼け落ちてしまった。

 家康は直ちに再建工事を命じ、翌年三月には本丸の殿舎を完成させて入城した。

 隠居とはいえ、家康は本多正純ら有能な幕僚を従えており、政治経済にわたる重要政策がこの駿府城から発せられたのである。このことから「大御所政治」または江戸とともに「二元政治」とも呼ばれるようになった。

 城下には諸大名や旗本の屋敷が並び、町人の人口も増え、商業経済も家康の保護の下に大いに繁栄した。

  慶長十四年(1609)、駿府城の城主に十男の頼宣を五十万石の殿様として据えた。後に頼宣は紀州徳川家の祖となるが、この当時はまだ七歳であった。

 慶長十五年、天守閣が完成した。黄金の鯱に金箔瓦という豪華絢爛たる天守閣であった。まさに大御所家康の権力を象徴するものであった。

 慶長十九年(1614)十月、家康は大坂討伐のために駿府を出陣した。大御所となってからの家康の目的はこの一点にあったと云ってよい。冬の陣、そして翌年五月の夏の陣においてついに秀頼と淀殿を自刃に追い込み、豊臣家を滅ぼしてしまった。

 元和二年(1616)四月、戦国の世の辛酸をなめ尽くし、あらゆる困難を乗り越えてきた家康も七十五歳を一期として駿府城本丸に没した。

 戦国武将の多くが夢半ばで斃れた時代に、家康は完結の生涯を終ええた稀代の武将であったといえよう。

 家康後の駿府城は頼宣が元和五年まで在城して紀州和歌山城へ移り、一時的に番城となった。

 寛永元年(1624)に徳川忠長が駿府五十五万石の城主となった。忠長は三代将軍家光の弟である。幼い頃に病弱な竹千代(家光)より容姿端麗な国松(忠長)の方が秀忠から愛されていたと云われている。それが祟ったのかは分からないが、家臣の手討や辻斬りなどが問題となり、寛永八年に行状不届きということで蟄居、改易、最後には自刃に追い込まれてしまった。

 その後は明治に至るまで駿府城には城主が封じられることはなく、幕府から城代が赴任して城を預かり続けた。
▲駿府城二ノ丸を廻る石垣と中堀。春には桜花爛漫、見事な風景を見せてくれる(2008)。
▲中堀を一周(約40分)する遊覧船「葵船」(2023)。

▲ 横内御門跡。三ノ丸東北川の出入り口である。手前の水堀は部分的に残った三ノ丸堀の一部である。

▲ 三ノ丸大手御門跡。三ノ丸には静岡県庁などの庁舎が建ち並んでいる。

▲ 二ノ丸堀(中堀)沿いに北側から見た東御門。

▲ 東御門橋を渡ると枡形となっている。突き当たりの右が櫓門となっている。

▲ 本丸堀(内堀)。発掘調査によって姿を現した内堀の一部である。

▲ 二ノ丸水路。本丸堀と二ノ丸堀を結ぶ水路。本丸堀の水位を保つための施設である。

▲ 北御門跡。桜の季節には水面一面に花びらが浮かぶ。

▲ 本丸跡に建つ鷹狩姿の「徳川家康公之像」。

▲ 復元された東御門と巽櫓の内部は展示スペースとなっており、入口では晩年?の家康公が出迎えてくれる。
▲「葵船」に乗って城跡を一周。前方は東御門の橋(以下2023)。
▲間近に見る石垣。

▲南西隅の坤(ひつじさる)櫓。

▲一周の最後は北門橋をくぐる。橋桁が低いために船の屋根が下がる仕組みになっている。当然、乗船者は皆背を屈めることになる。



----備考----
訪問年月日 2008年4月
再訪年月日 2023年11月11日
主要参考資料 「静岡県の城跡」静岡古城研究会

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