景徳院
(けいとくいん)

                  山梨県甲州市大和町田野           


▲ 景徳院本堂。手前の一本松は「旗竪松」と呼ばれ、最期の日に勝頼は信勝
に盾無鎧を着せて日の丸の御旗をこの松の根元に立てたと伝わっている。

武田勝頼、
      終焉の地

 天正十年(1582)三月三日、武田勝頼は迫り来る織田・徳川の大軍に追われるようにして新府城を離れた。つい先日までは一万余の軍容であった武田軍も諏訪から新府城に戻ったときには二千に減じていた。さらにここ数日の間には離脱者が続き、勝頼一行に従う者は女子供、従者を含めて七百余人となっていた。この日、勝頼は新府城に火を放ち、古府中に近い一条右衛門大夫信龍の館で休憩した。
 勝頼一行の行先は小山田信茂の居城岩殿城である。一条右衛門に別れを告げた勝頼一行は柏尾の大善寺(甲州市勝沼町)に泊まった。翌日は一里ほど進んで駒飼村に泊まった。この頃には一行は二百人ほどに減っていた。
 駒飼で勝頼一行は五日間滞在している。この間に小山田信茂が岩殿城に先行して勝頼らを迎える準備を整えていたのである。とばかりに勝頼らは思っていた。小山田信茂の裏切りが明らかになったのは、小山田の手の者が勝頼一行の中にいた信茂の母や嫡子らを伴って消え去った時であった。しかも小山田勢は笹子峠(後の甲州街道)に柵を構えて鉄砲を撃ちかけてくる始末である。
 頼みの綱であった小山田信茂に裏切られた一行は日川渓谷に沿って天目山を目指すことにした。ここを死に場所としたのか、もしくはその先の雁坂峠を越えて関東に出、北条氏を頼ろうとしたのか。
 駒飼から反転した勝頼一行は田野の郷に辿り着き、ここで夜を明かした。三月十日のことである。
 このき勝頼随従の面々は跡部尾張守勝資、安部加賀守貞村、小原丹後守忠次、小原下総守忠国、小原源太左衛門、小原下野守、小原清二郎、温井常陸守、秋山紀伊守光綱、秋山杢介、秋山源三郎景氏、秋山宗九郎、秋山民部光明、秋山宮内、土屋惣蔵昌恒、土屋源蔵、河村下総守、小宮山内膳友晴、金丸助六郎昌義、小山田平左衛門、小山田掃部介義次、小山田弥介、

 ▲ 景徳院門前の姫ヶ淵に建てられている慰霊碑。勝頼夫人(北条氏)と十六人の侍女を描いたレリーフは見る者の胸を打たずにはおかない。
小山田於児、安西伊賀守、岩下総六郎、多田久蔵、内藤久蔵、山野居源蔵、神林清十郎、有賀善左衛門、穴沢次太夫、薬袋小助、貫井新蔵ら三十三人と女衆十六人であった。勝頼(三十七歳)と夫人(十九歳)、嫡子信勝(十六歳)、それに最期の日に犠牲となった僧二人を加えると計五十四人(景徳院位牌)であり、これが勝頼と死を共にした武田最後の人々であった。
 翌十一日の朝、勝頼らは天目山を目指して歩き出した。織田勢は勝沼あたりにまで来ているという。今日あたりはその先鋒がこの崖道を追って来るであろう。
 しかし勝頼らの行く手にもすでに敵が先回りして待ち構えていたのである。土屋惣蔵らの奮戦(土屋惣蔵片手切り遺跡)で勝頼一行は再び田野まで戻った。
 やがて下流方向からも織田勢の喊声が迫ってきた。一行はここを最期の地とするほかなくなった(鳥居畑古戦場)。
 勝頼夫人は、
     黒髪のみだれたる世ぞはてしなき思いに消ゆる露の玉の緒
 と詠んで自害して果てたと伝えられている。
 戦国大名武田氏の最期はあまりにも無残である。
戦後、徳川家康が勝頼主従の菩提を弔うために建立した田野寺、現在の景徳院の境内には勝頼、信勝、勝頼夫人がそれぞれ自害したとされる扁平な石が残されている。生害石という。
 また、寺の前を流れる日川(にっかわ)の崖は姫ヶ淵と呼ばれており、勝頼夫人の侍女らが身を投げて殉死した場所と伝えられている。

▲ 姫ヶ淵付近の日川。上流にダムがあるため現在は水量が少ないが、天正当時は激流が渦巻き侍女らの生命を呑み込んだ川である。

▲ 武田勝頼の首を洗った場所といわれる「史跡 首洗い池」。景徳院門前に標柱が立っている。

▲ 景徳院参道の入口。武田勝頼公廟所の石碑が建っている。

▲ 安永八年(1779)建立の山門。

▲ 「没頭地蔵尊」。首無し地蔵ともいわれる。勝頼夫人の遺骸を葬った所である。

▲ 武田勝頼の墓(中央)。左は信勝、右が勝頼夫人の墓である。

▲ 武田勝頼公生害石。

▲ 武田勝頼公室北条夫人生害石。

▲ 武田信勝公生害石。
----備考----
画像の撮影時期*2007/03