賤機山城
(しずはたやまじょう)

            静岡県静岡市葵区大岩       


▲賤機山城は創築や城主など不明な点が多い城である。しかし、安倍川対岸にそびえる南朝狩野氏の
拠点安倍城を望む位置にあることから、これに対する城として築かれた可能性が高いと思われる。
(写真・本曲輪の城址碑と説明板。)

南朝方安倍城を望む城砦

 駿府城公園(駿府城)の西北900mほどの所に静岡浅間神社がある。ここから北に向かって細長い丘陵地が始まって安倍川上流まで続いている。浅間神社からこの丘陵の鯨ヶ池までの約7kmはハイキングコースとなっており、賎機山城は1.5kmほどの地点に築かれている。尾根上からの眺望は素晴らしく、西側には静岡市街が眼下に広がり、遠く富士の霊峰を拝することができる。目を転じて東方を見ると安倍川の対岸に重畳たる山塊が果てしなく広がって見える。その一番手前に見える山塊の最高所には安倍城があるのだ。
 賤機山城に関する城史は意外に伝えられるところが少なく、創築年代はおろかその目的や城主名さえも明確ではない。一般的には大手や土塁痕などが西に面していることから南朝方安倍城に対する城として築かれたか、または駿府にほど近い位置にあることから今川氏の詰城として築かれたものと見られている。
 実際に登城してみると分るが、城域は南北に細長く500mほどに達するようだが尾根幅はいたって狭く、大名級の武将が大軍を擁して立て籠もるなど到底無理である。したがって守護大名から戦国大名へと成長してゆく今川氏の詰城とするのは無理であろうと思われる。しかし、駿府防衛の一砦としては重要な位置にあることは明白であり、安倍川対岸にある駿河南朝最大の拠点であった狩野氏の安倍城を監視、または防波堤としての役割を担ったものとするのがやはり自然であろう。
 そうであるならば創築年代も南北朝争乱期、初代今川範国が駿河守護として駿河府中(駿府)へ入部すると同時に整備されたことになろうか。範国の守護補任は建武五年(延元三年/1338)のことである。

 南北朝の争乱が治まり、今川氏は守護大名から戦国大名へと脱皮して領国を拡大して行く。同時に賤機山城の存在価値は薄れて行く事になったものと思われる。それでも、今川氏の一門衆か重臣たちが在番していたというから城砦としては維持されていたのであろう。
 永禄十一年(1568)十二月、武田信玄が駿河に進攻した。今川氏真は命からがら駿府を脱して遠江掛川城へ逃げ込んだ。駿府は焼土と化し、信玄は駿府籠鼻に布陣したと言われる。
 賤機山の西側山麓は籠上と言う地名であり、城址から西に延びる支尾根には大規模な堀切を持つ部分があって籠鼻砦と呼ばれている。このことから信玄が布陣したという籠鼻は賤機山城のことを指すものと見られている。二の曲輪南側には幅10mほどの大堀切が残っており、武田氏による改修の跡と見られることから武田方の軍兵が常駐していたことを窺わせている。


二の曲輪南尾根を遮断する大堀切(上から)。
 ▲静岡浅間神社の楼門(重文)。
▲浅間神社の南隣にある八千戈神社。

▲八千戈神社左側にある石段が登城口となる。ここから往復1時間以上の山歩きである。

▲石段を上りきると賤機山古墳の石碑があり、賤機山ハイキングコースの起点である。

▲麓山神社から先は尾根道を行くコースとなる。

▲途中いくつかの展望スポットが設けられている。

▲東に富士山を展望。

▲西には駿河南朝の拠点、安倍城の山並みが指呼の距離に見える。

▲浅間山頂(標高140m)の救世観音の建つ広場。ここまでの道は完全整備されている。

▲救世観音から先はこのような山道となる。

▲約10分ほどで大堀切である。

▲堀切を上がり二の曲輪東側を北へ進み本曲輪域に入ると右側に低い土塁が現れる。

▲そして窪んだ所に石碑が建っている。賤機山城の本曲輪である。

▲「賤機山城塞阯」の碑。

▲説明板。

▲東側から見た本曲輪。

▲本曲輪北側の削平地。

▲南側静岡市街とその向こうに駿河湾が見えた。
----備考----
訪問年月日 2014年12月14日
主要参考資料 「静岡県の城跡」静岡古城研究会
「静岡県古城めぐり」他

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