掛川城
(かけがわじょう)

国指定建造物(御殿)・百名城

                   掛川市掛川          

掛川城天守閣
▲掛川城は戦国大名今川氏が遠江支配の拠点として整備した城である。そして
今川氏が武田氏と徳川氏に攻められた際に最後の足掛かりとした城でもある。 
(写真・平成六年に国内初の木造天守閣として建造復元された天守)

不落の城「雲霧城」

 室町時代、
「足利将軍家絶えなば今川が継ぐ」
 とまで云わしめた東海の雄、今川氏。

 単に足利氏の身内というだけではなく、今川義元の代には駿河、遠江、三河の三国を従える堂々の戦国大名であった。

 それが桶狭間の一戦で、こともあろうに尾張のうつけと呼ばれた織田信長に首を取られてしまったのである。

 義元亡き後の今川方は総崩れとなり、後を継いだ氏真には領国を維持する力はなかった。

 永禄十一年(1568)、駿河は瞬く間に甲斐の武田に取られてしまった。行き場を失った氏真は駿府からほうほうの体で逃れ、ここ掛川城へ身を寄せたのである。

 掛川城は今川譜代の重臣朝比奈氏の居城となっていた。城主朝比奈備中守泰朝は、それまでの古城(天王山/掛川古城)の南西隣の丘陵に新城を築き、永正十年(1513)頃から武備を固めていたのであった。

 一方、武田に遅れじと三河から浜松へ進出した徳川家康はただちに掛川城を包囲した。翌年正月十二日には古城跡である天王山を激戦の末に奪取してここに本陣を置いた。

 しかし、城の守りは意外に固く、しかも武田軍による遠江進出が中遠にまで及んでおり、家康はあせっていた。掛川城にいつまでも手こずっている場合ではなかったのである。家康は力攻めをやめ、和議によって開城させることにした。

 包囲半年後の五月十七日、氏真、泰朝らの退城を条件に和議成立に漕ぎ付けたのである。こうして掛川城は不落の面目を保ったまま今川の城から家康のものとなったのである。

 現在、本丸天守台に「霧噴き井戸」と称する井戸跡が残っている。家康との籠城戦の際にここから霧が噴出して城を覆い、徳川勢の攻撃から城を守ったということである。不落の城にまつわる伝承であろう。

 さて退城した氏真一行は掛塚湊から海路、蒲原に行き、伊豆の北条氏を頼って落ちて行った。東海の雄今川氏のなれの果てであった。

 「隙あらば」
 と遠江進出を窺う武田信玄に備えて、家康は掛川城の守将として譜代の重臣石川日向守家成、長門守康道父子を命じた。元亀三年(1572)の三方原合戦の危機に際しても石川家成は城を守り続け、武田方の支城となっていた各和城を攻め落して気勢を上げた。

 そして歴史の流れは武田を滅ぼし、信長を葬り去り、秀吉の時代へと大きく流れを変えて行く事になる。天正十八年(1590)、秀吉の天下統一を阻む最後の牙城、小田原城の落城をもって家康は関東に移った。

 掛川城には秀吉の臣山内対馬守一豊が五万石で入った。近江長浜城からの移封である。城に入った一豊は城の大改築に取り掛かり、ほぼ現在見られる城域の形態を造りあげた。天守閣もこの時はじめて建造され、現在の復元天守閣はこの当時のものであるという。

 近代城郭として蘇生した掛川城は関東に移った徳川家康を仮想敵としていた。豊臣と徳川が敵対した場合に備え、東海道を駆け上ろうとする徳川勢を阻止しなければならないのだ。

 しかし、秀吉亡き後、再び歴史の流れは大きくうねりはじめた。

 慶長五年(1600)、会津征伐に従軍した一豊は、石田三成挙兵の報せに際して開かれた小山の軍議において、家康への忠誠を諸将の先頭をきって宣言したのである。

 それは自らの所領掛川五万石を家康に明け渡すというものであった。この一豊の発言を機に諸将は皆、一豊に倣って家康への忠誠を誓ったのであり、これが関ヶ原合戦の勝利へとつながったのである。

 ともかく、東海道を西上する家康の大軍を迎え入れた掛川城は再び家康の城となったことになる。

 関ヶ原合戦後、山内一豊は土佐二十万石(高知城)の太守として栄転した。掛川城には徳川譜代の松平隠岐守定勝が三万石で入ったのをはじめとして譜代衆が頻繁に入れ替わった。延享三年(1746)以後は太田道灌の末裔太田摂津守資俊が封じられ、明治をむかえるまで七代続いた。

 二の丸に現存する御殿は嘉永七年(1854)の大地震の後に太田資功(すけかつ)によって再建されたもので、藩庁として使われていたものである。

 一方、この大地震で倒壊した天守閣はその後再建されることはなく、廃藩置県後は民間に払い下げられて他の構造物は取り壊された。

 ただ、御殿だけはその後も学校や役場、庁舎などとして使用され続け、昭和五十五年(1980)に至って国の重要文化財に指定された。

 平成六年(1994)、大地震によって倒壊した天守閣が百四十年ぶりに国内初の木造復元天守として再建され、現代の掛川の街を黙って見下ろしている。

▲城下に時刻を報せていた太鼓櫓。

▲二の丸御殿。

▲復元された大手門。

▲天守から見た大手門。

▲太鼓櫓。

▲木造復元天守。

▲十露盤堀。

▲天守前にある霧吹きの井戸。

▲天守の忍び返し。

▲二の丸御殿入口。

▲二の丸御殿前の城址碑。

▲大書院次の間から見た御殿内部。

▲二の丸から見た天守。

▲本丸入口前の城址碑。

----備考----
 訪問年月日 2006年7月15日
再訪年月日 2015年10月3日
画像追加
主要参考資料 「静岡県の中世城館趾」
「静岡県古城めぐり」他

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