高知城
(こうちじょう)

                  高知県高知市丸ノ内           


▲ 追手門前から見上げた高知城天守閣。享保十二年(1727)の大火で焼失、寛延二年
(1749)に再建された。昭和三十年(1955)の解体修理時の調査により創建当時の姿で
再建されていたことが明らかになった。国内現存天守閣12城のひとつに数えられている。

土佐一国、
     経世の城

 慶長六年(1601)秋、長宗我部氏の居城であった浦戸城から同じいでたちをした六人の騎馬武者が駆け出した。巡見笠、面頬、袖無し羽織、どれが誰なのかわからない。
 実はこれ、山内一豊(やまうちかつとよ)が大高坂山の築城現場に出かける際の一場面なのである。
 山内一豊が関ヶ原合戦の戦功によって土佐一国を拝領して入国を果たしたのがこの年の一月で、この時入城したのが浦戸城であったのだ。しかしここでは大規模な城下町を形成するには狭小すぎた。しかも旧主の居城とあってはなんとも居心地が悪い。長宗我部の一領具足と呼ばれる遺臣らの動きにも不穏なものがある。そうした怨念にも似たしがらみから抜け出そうとするかのように、一豊は近世城下町の建設と土佐経世の新たな城の築城に踏み切ったのであった。その地が大高坂山なのである。六月から準備に取り掛かり、八月に地鎮祭、九月に鍬初が行われて本格的な工事が始まった。
 一豊は頻繁に築城現場に通った。その際には先の同じ形をした五人が従ったのである。市川大炊、乾伊助、乾七郎右衛門、野中玄蕃、柏原半右衛門である。現場往復の途中で長宗我部旧臣の待ち伏せを警戒してのことであった。
 一豊の入国に先立って、長宗我部旧臣の間で浦戸城明渡しをめぐり衝突が起き、明渡し派が討取った反対派二百七十三人の首を浦戸に晒すという事態が起きている。事の是非はともかく、土佐武士の気性の激しさが伝わってくる。
 山内家はその土佐を治め続けてゆかなければならないのである。一豊は長宗我部氏の政策継承を明らかにして民心を鎮め、国内を巡見して廻った。一領具足の旧臣らの仕官を受け入れる方針も示した。
 一方で、反抗する者に対しては厳しい態度で臨んだ。入国してしばらく経った三月、反抗的な一領具足らを根絶するために相撲の興行と称して集め、七十三人を捕らえて磔にしてしまったのである。甘い顔だけではなかったのである。
 一豊は一刻も早く長宗我部の土佐から山内の土佐にしたかった。大高坂山の築城は山内土佐の出発点でもあったのである。
 築城総奉行は百々(どど)越前安行が務め、縄張りは彼の手による。石垣は近江穴太出身の北川豊後貞信が担当した。
 天守閣は三層六階で最上階には回縁、高欄をめぐらせている。これは土佐入国前の居城であった遠江掛川城と同じ様式である。一豊好みの天守閣に仕上げたのであろう。

▲ 天守閣北面。三層六階、または四重五階といわれ、最上階には廻り縁と高欄がめぐらされている。
 慶長八年八月、本丸、二ノ丸が完成して一豊は浦戸城から移った。入城に際しては武装した具足姿の家臣団が一豊とともに続き、威嚇のための空砲や金鼓が鳴り続いたという。そして大高坂山の地名を「河中山(こうちやま)」と改名した。鏡川と江ノ口川の間にこの城があったからである。
 一豊築城以前、実は長宗我部元親がここに城を築きかけたことがあった。天正十六年(1588)に土佐を統一して岡豊城(南国市)から大高坂山に移ったのである。一国統治の地として選んだ場所であったが、川に挟まれているために地盤が緩く、さらに水害に見舞われるなどして数年後には浦戸城に移ってしまったという経緯がある。
 さらにそれ以前、南北朝の頃にもここに城があり、城主大高坂松王丸という武将が南朝方として名を残している。南朝の皇子花園宮満良親王を奉じて奮戦したが延元五年(1340)に力尽きて落城、松王丸は討死してしまった。という地でもある。
 落城と諦めの城跡に一豊が築城術の粋を結集して見事に近世城郭を築いたということになる。
 戦国の世を功名一筋に命懸けで生き、一国一城の主となった一豊であったが移城わずか二年後の慶長十年(1605)九月に病没してしまった。六十一歳であった。

▲ 追手門。高知城の表門である。門前は枡形となっており、門に迫る敵を三方から攻撃できるようになっている。

▲ 詰門。本丸と二ノ丸をつなぐ櫓門。橋廊下とも呼ばれた。また二階には家老や中老が詰所としたことから詰門と呼ぶ。

▲ 本丸の天守閣と正殿。明治七年、高知公園として一般に開放される際に、正殿は「懐徳館(先人の徳を懐かしむ)」と名付けられた。
  一豊には実子がなく二代藩主には弟康豊の長男忠義がなった。慶長十五年、忠義は河中山から「高智山」に改称した。水害に悩まされることから河中の字を忌んでの改称であったという。そしてこの翌年、三ノ丸が完成、着工十年にして城郭全体が整った。
 以後、十六代目藩主豊範をもって明治を迎えることになる。歴代藩主の多くは藩政改革と財政再建にその労力を費やしているが大成功を収めたという事歴はあまり聞かない。
 城に関しては享保十二年(1727)に城下の大火によって追手門以外の天守閣をはじめとする建造物の全てが焼失してしまっている。ときの藩主は八代豊敷(とよのぶ)で、苦しい財政事情のなか、城の再建に取り掛かった。全城郭が完成したのは宝暦三年(1753)であったというから実に25年の歳月を要したことになる。現存の天守閣はこの時(寛延二年/1749)に再建されたものである。
 幕末、いうまでもなく土佐は坂本龍馬、武市半平太、後藤象二郎、岩崎弥太郎、中岡慎太郎、板垣退助らを輩出した。
 城内には自由民権運動の板垣退助の銅像が建っている。
「板垣死すとも自由は死せず」
 遊説中に暴漢に刺され、血に染まるなかで発したとされる言葉はあまりにも有名である。
 そして海援隊をつくり、薩長同盟を実現させ、はたまた大政奉還などを説いた船中八策で知られる坂本龍馬、彼もこの城を見上げて育ったひとりである。

▲ 黒鉄門。本丸の裏門で、普段は閉められており、非常時にのみ開けられたという。

▲ 石樋。城の雨水の排水が石垣にあたらないように工夫されている。

▲ 忍び返し。石垣をよじ登って侵入する者を防ぐものである。

▲ 初代藩主となった山内一豊の銅像。大正二年建設の銅像をもとに平成八年に再建された。

▲ 一豊の妻の銅像。一豊若かりし頃、織田信長の馬揃に参ずるに馬がなく、困り果てていた夫に、「これにて名馬を」と妻がいざという時のためにへそくっておいた金を出したという内助の功を描いた逸話は有名である。

▲ 板垣退助の銅像。一豊とともに土佐にやってきた山内家の家臣の家系である。戊辰戦争では新政府軍の司令官として活躍、甲府城入城の際に姓を乾から板垣に変えた。先祖が武田家臣であったとのことからである。
----備考----
画像の撮影時期*2008/01