三方原古戦場
(みかたばらこせんじょう)

                   浜松市北区根洗町            


▲ 浜松市根洗町に建てられた古戦場碑。武田・徳川両軍の最初の激突はこの辺りであったと推定されている。

武門の意地、
         台地の決戦    

 元亀三年(1572)、この年十月以来、遠江に侵攻していた武田勢は各所を撃破して要衝二俣城を攻囲、十二月十九日に陥落させた。

 遠江の経略に手を付けて四年、徳川家康はこの間に着々と勢力を広げていたが、武田信玄率いる大軍の侵攻により、わずか二ヵ月でそれも水泡に帰するかにみえた。浜松城の家康とその軍勢は怒涛の大軍を前に風前のともし火のごとくであったといえる。

 十二月二十二日未明から武田勢は天竜川を渡河、全軍が街道を南下しはじめた。総勢二万五千である。その鉾先には浜松城がある。

 対する徳川勢は八千、援軍の織田勢三千を加えても一万一千である。武田の半数にも満たない。いよいよ浜松城の籠城戦がはじまる。頼みは織田信長が大軍を催して救援に駆けつけてくれることであった。「それまでは持ちこたえなければならぬ」徳川の軍兵は臍を固めた。

 夜が明け、物見からの報せが矢継ぎ早にもたらされてくる。「武田勢、整然と南下中、昼過ぎには城に取り付くもよう」城兵は城門を固く閉ざし、迎え撃つ準備に余念がない。

 ところが昼近くなって、「武田勢、大菩薩山に向かいつつあり」との報せが入った。

 現在の市内有玉西町附近(欠下城)である。武田勢はここから進路を西に変え、三方原台地へと登りはじめたのである。

 城内の徳川勢は困惑した。武田の意図が解らないのである。

 家康は直ちに家臣を集めた。「どうすべきか」家康は爪を噛みながら家臣たちを見渡した。「武田に城攻めの意志なしと見受け申す。おそらくは我らを城外に誘い出し、一戦に及ばんものと。ここは備えを固め、観望せば敵は三河へと抜け出るものと思われまする」と大久保忠世が観望案を進めた。鳥居四郎左衛門忠広や夏目次郎左衛門吉信らの諸臣もこれに同意であった。

 しかし「わしには武田の素通りを見過ごすことはできぬ。遠江を好き勝手にされ、このうえ三河までも蹂躙されるとあってはこの家康、どの顔して民百姓に会えようか。ここで武門の意地を示さずば、徳川家は末代まで笑いものにされてしまう」と家康は再び諸臣の顔を見渡した。自ら発する言葉の重みは心得ている。「死ね」と云えば喜んで死んでくれる忠臣ばかりである。いま、家康はそれと同じことを云っているのである。

 「御館様の御心中、察することも出来ず申し訳けござりませぬ。われら一同、御馬前にて見事討死仕り候う」と大久保忠世が皆を代表するかたちで家康の意に従うことを誓った。

 かくして徳川勢は浜松城を打って出、武田の大軍を追ったのである。

 昼過ぎ、武田勢は台地西端の祝田の坂近くに達していた。
「坂の上から攻め込めば、勝てるかもしれぬ」一瞬、家康の脳裏に勝利の女神が微笑んだ。

 しかし、それは甘かった。武田勢は坂の手前で向きを変え、堂々の陣を張ったのである。さすがは信玄、いくさにかけては家康より一枚も二枚も上手である。しかも大軍にものいわせ、重厚な「魚鱗の陣」である。

 「やはり、正面きって戦うしかないのか」家康は相当の犠牲を覚悟せざるをえなかった。

 家康は「横一線に陣を張れっ」と下知した。右翼に酒井忠次、中央に石川数正、左翼に本多忠勝、そして織田の援軍の平手汎秀、佐久間信盛を配した。鶴が大きく翼を広げた形に例えて「鶴翼の陣」と呼ぶ。小勢で小さく密集した陣形では簡単に包囲され、殲滅されるのは明らかであるからである。逆に相手を包み込む勢いで横に広がるのだ。

 しばらく、睨み合いの状態が続いた。陽が傾くと同時に寒さも増してくる。この地方特有の西風が頬をこわばらせ、小雪まで舞いはじめた。「御館様っ、先陣つかまつる」とついに、中央石川数正麾下の大久保忠世が先頭を切って敵陣へ突進した。

 武田の最前線は小山田信茂勢である。石川勢は一丸となって小山田の陣を襲った。「外山小作、一番槍っ」猛烈な石川勢の突撃に小山田勢は崩れた。そこへ左翼の本多忠勝らの旗本勢が突入し、武田第二陣の山県昌景勢を三町余(300b余り)押し崩した。

 しかし、信玄の本陣を衝くには十重二十重の敵陣を突破しなければならない。そのうちに馬場信春勢と武田勝頼勢が石川勢と旗本勢を横から突いてきた。一旦崩れた小山田、山県勢も陣を建て直し、反撃に転じてきた。

 石川、本多勢を救援すべく右翼の酒井忠次勢が反撃の小山田勢に突進した。これに対し山県、馬場勢が酒井勢にあたり、完全に乱戦状態となった。こうなっては数の多いほうが有利である。徳川勢はじりじりと後退しはじめた。

 信玄は新手を次々に投入して徳川勢を苦しめた。信玄の采配は冴える。甘利昌忠の小荷駄組に最左翼の織田援軍の陣を横撃させた。

 「平手、佐久間殿の陣、総崩れっ」家康は織田勢壊走の報せを聞くと、「もはや、これまでか」と全軍に撤収を命じた。

 同時に武田勢は追撃戦へと移った。すでに陽は落ちている。

 家康は大久保忠世と馬廻り少数に守られて一目散に浜松城を目指した。

 本戦、そして退却戦で討死した徳川の将士の数三百余とも五百余とも伝えられている。一番槍の功名をあげた外山小作、二俣城開城の恥辱を雪がんとした中根正照、青木貞治、そして成瀬正義、鳥居忠広、本多忠真、夏目吉信等々多くの家臣が斃れた。

 夏目次郎左衛門吉信にいたっては浜松城の留守居役でありながら敗戦と聞くと、二十余騎を率い、家康の姿を求めて城を出たのであった。やっとの思いで探し当てた家康は意気消沈して死を決していた。吉信はそれを諌めて逃し、身代わりとなって討死している。

 忠臣の奮戦と犠牲によって命からがら浜松城に戻った家康は城門の全てを開け放ち、各所に大篝火を焚かせた。退却する味方を収容するためであると同時に、謀計あるを示して武田勢を城に近づけぬ策略であったと云われている。

 一方の、織田援軍の退却も困難を極めていた。地理が分からず、しかも夜間とあっては方角すらも定かでない状況であったようだ。平手汎秀らは浜松城から大きくそれた位置を敗走、城の南方(市内・東伊場)稲葉山で討死している。

 この夜、家康は夜陣を張る武田勢を犀ヶ崖に奇襲して、わずかに一矢を報いた。

 一夜が明け、武田勢は潮が退くように兵を引き上げた。そして台地西北端の刑部で越年、年明け早々に三河へ向かって移動した。

 この三方原の戦いは、「斃れたもののことごとくが武田方を向いて仰向けに倒れており、背を向けているものは一人とてなかった」と戦後、馬場信春が語ったという。

 まさに三河武士の面目をかけた一戦であったといえる。


二代目根洗い松の碑。信玄はこの附近に本陣を置き、物見の兵がここの松に登って見張りしたという

祝田(ほうだ)の坂を下った都田川附近から三方原台地を遠望。武田勢はこの坂を下らずに徳川勢を待ちうけた。画像中央の岡の中腹に見える白いガードレール(矢印)の道路が現在の祝田の坂である。

成瀬正義、外山小作、遠藤右近の墓のある禅刹宗源院(市内・蜆塚)

本多肥後守忠真の碑(市内・布橋)

夏目次郎左衛門吉信旌忠碑(市内・布橋)

織田の援将平手汎秀の墓碑と平手神社。当時、風邪をひいていた汎秀は敗走の末に農家に潜んでいたがくしゃみをしたために武田方に見つかってしまったという。

現在、汎秀を祀る平手神社は風邪の神様として地元の人々に崇敬されている(市内・東伊場)

合戦後、武田軍は刑部に越年、前山・陣平に陣立てすと記されている。この史跡碑は市内細江町前山に建てられたものである
----備考----
訪問年月日 2004年6月5日〜10月17日
主要参考資料 「三方原合戦」他