欠下城
(かけしたじょう)

                   浜松市東区有玉西町         


▲欠下城は戦国期の今川氏と斯波氏の抗争時代に登場する大菩薩山
の一画に相当する場所にあるが城史としての詳細は不明である。
(写真・工場が建ち、東名に分断された城跡。手前は馬込川。)

本坂道の要地

 文亀の頃(1501-04)、遠江西部は守護斯波氏と駿河今川氏の争乱の巷と化していたが、やがて今川氏親の重臣朝比奈氏や伊勢宗瑞(後の北条早雲)の働きによって一旦は平定される。しかし、永正八年(1511)になると再び斯波氏の遠江奪還の動きが活発となった。

 永正十一年(1514)、斯波義達は自ら出陣して井伊氏の三嶽城に陣取り、牢人諸氏を糾合して引馬城の大河内備中守貞綱を支援した。三嶽城下には「毎夜篝火暁の星の如し(宗長手記)」と多くの軍兵が参集していた様子が伝えられている。これに対して今川氏親は朝比奈泰以ら三万の軍勢を向けたのである。

 朝比奈勢は東海道から天竜川を渡河すると本坂道(姫街道)を西進、市野砦(浜松市市野町)を経、馬込川を渡河して三方原台地に上がった。上がった所が大菩薩山と呼ばれている。

 欠下城はその大菩薩山の一画にあたるものと思われ、空堀や土塁、井戸跡などが検出されている。

 その後、朝比奈勢は三嶽城攻めに向かい、簡単に落としてしまったらしい。所詮烏合の衆では太刀打ちできなかったのであろう。斯波義達は尾張に引退してその後は守護代織田氏の傀儡と化し、実権を失くしてしまう。

 この朝比奈勢、大菩薩山(欠下城)にも兵を残して引馬城の大河内勢の動きに対応できるようにしたものと思われる。つまり分断作戦をとったものとの見方がある。

 その後、欠下城又は大菩薩山がどのように活用されたのかは不明であるが、東海道と同様に東西交通の主要道である本坂道を扼する位置にあることから何らかの施設が設けられていた可能性も考えられる。

 今川氏親の命を受けた朝比奈勢が三嶽城を落としてから半世紀余り後の元亀三年(1572)十二月、二俣城を落とした武田信玄率いる大軍が浜松城方面に南下、欠下城跡のある大菩薩坂から三方原台地上に出たとされ、大菩薩山に陣したと伝えられている。武田勢はそのまま西進、浜松城を打って出た徳川家康と台地西端近くで合戦となった。三方ヶ原の戦いである。

 現在、城址は東名高速道路と工場の建設によって遺構は消滅、浜松市の史跡標柱が立つのみである。 

▲右側工場の建つ高台付近が城址の一画である。

▲三方原台地へ上がる大菩薩の坂。。

▲東名高速ガードの北側に立つ城址標柱。

▲工場の南側に坂道がある。右の高い部分に工場が建っている。

▲とりあえず坂道を進む。

▲坂道の左側は竹藪となっているが、遺構らしきものは分からない。

▲工場南の坂道のすぐ南側に大菩薩の坂がある。坂から振り返った写真。向こうの橋は馬込川を渡る東名高速道路。

▲坂道の入口に立つ「大菩薩の坂」の標柱。
----備考---- 
訪問年月日 2019年4月13日 
 主要参考資料 「静岡県の中世城館跡」

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