三嶽城
(みたけじょう)

国指定史跡

                 浜松市北区引佐町三岳        


▲ 三岳の集落から見た御嶽城跡。正面最高所の山頂が本丸である。

南風よ吹け
       いま一度

 南風とは後醍醐天皇を正統の朝廷とする南朝勢力のことである。

 暦応元年(1338)、すでに楠木正成はなく、新田義貞もこの年七月に北陸において討死。そして八月には足利尊氏が征夷大将軍となり、京都室町に幕府を開いた。すでに吉野に移っていた後醍醐天皇は、こうした頽勢を挽回するために義良親王と宗良親王をそれぞれ陸奥と遠江に遣わすことにした。そこには南朝に忠誠を誓う南風の勢力がいまだに健在であったのである。

 義良親王と宗良親王、それに従う北畠顕信、北畠親房、結城宗広らが同年九月に伊勢大湊を出帆した。

 ところが、船団は遠州灘で暴風雨に見舞われ、ばらばらとなってしまった。義良親王は三河湾の篠島に、北畠顕信、結城宗広らは伊勢に吹き戻され、北畠親房は常陸東条浦に漂着した。また相模湾方面に流された船は足利方に見つかって、無残にも全滅の最期を遂げた。

 そして宗良親王は幸いにも目的地であった遠江白羽(しろわ)の砂浜に打ち上げられた。現在、白羽の地名は浜松市、磐田市、御前崎市の三ヵ所にあるが、いずれも遠州灘の浜辺である。

 白羽の浜に宗良親王が上陸したとの報せを受けて駆けつけたのは南朝方のたのみとしていた遠江介井伊道政、高顕父子であった。

 この附近には南朝の廷臣西園寺公重の所領浜松荘、同じく洞院実世の都田御厨、そして大覚寺党の気賀荘があり、さらには多くの僧兵を抱える鴨江寺が後醍醐天皇の寺領安堵の綸旨をうけて親南朝方となっていた。後醍醐天皇が南朝回復の拠点のひとつとして期待をよせたのもうなずけよう。

 無論そうした背景には南朝に心を寄せる在地武士団の力による支配があったのはいうまでもない。その代表者ともいうべき国人が井伊氏であった。

 井伊氏は平安期に遠江国司であった藤原共資を祖とする浜名湖東北岸から山間に入った井伊谷(いいのや)を本拠とする国人領主である。

 平時は井伊谷の居館(井伊谷城)を拠点としているが、有事の際にはここ三嶽城が本城となり、麾下支城群の総司令部となるのである。

 ちなみにその主たる支城をあげてみよう。井伊谷を中心として浜名湖北部から天竜川方面にかけて東西に広がる山並を利してその支城は配されている。

 最も西に位置するのが三河との国境に近い千頭峯城である。
城は猪鼻湖北方の山上に築かれ、東三河からの交通路である本坂峠越えの街道と奥三河からの宇利峠越えの街道を扼する要衝の地である。

 次が千頭峯城と三嶽城の中間にある奥山城である。ここは井伊家の重臣奥山氏の居城で千頭峯城の守将は奥山朝藤であった。 

 そして三嶽城の東側に位置するのが大平城である。

 何れも山岳城砦と呼べる山城であり、その各城がそれぞれに多くの砦を築いて防備を固めていたのであるから、その規模は壮大なものである。

 三嶽城の砦群としては井伊谷南部の台地上に三ヵ所あることが知られている。上野砦(浜松市北区引佐町井伊谷字上野)、谷津砦(同町井伊谷字谷津)、今城(同区細江町三和字五日市)がそれである。

 井伊氏に迎えられた宗良親王は当初井伊谷城に迎えられたと思われるが、年が明けると幕府軍の襲来に備えて三嶽城に移ったと思われる。

 七月二十二日、幕府軍の遠江攻撃が開始された。

 高師兼の軍勢が南朝方の鴨江寺を攻め、高師泰の軍は三嶽城の東の大平城の攻略にとりかかった。

 二十六日、鴨江寺ははやくも落とされ、高師兼軍は千頭峯城の攻略に向った。ここでの攻防は三ヵ月続き、十月三十日に落城。

 一方の高師泰軍は守りの固い大平城攻撃を断念して本城である三嶽城の攻略に向った。

 足利尊氏は仁木義長を援軍として三嶽城攻略に派遣し、さらに千頭峯城を落とした高師兼軍も加わって熾烈な攻防戦が繰り返された。しかし、井伊氏をはじめとする南朝軍の奮戦も空しく、翌暦応三年正月三十日に三嶽城は落城した。

 井伊道政らは宗良親王を奉じて、未だ健在の大平城に移ってさらに抵抗を続けたが敵わず、親王を信濃(駿河安倍城とも)へ落とした後、この城も八月二十四日落城した。そしてこれが遠江南朝の終焉の日でもあった。

 その後も井伊氏は在地領主として井伊谷を守り続け、戦国期には今川氏の遠州進出に抗して井伊直盛が三嶽城に籠っている。永正十一年(1514)のことである。しかし、今川の将朝比奈泰以の猛攻によってあえなく落城してしまった。

 その後、三嶽城は城としてではなく、ひとつの山として遠州平野の移ろいを黙って眺め続けた。


本丸(一の城)に建てられた城址碑。

本丸からは浜名湖はもちろん遠州灘まで見渡すことができる

▲出丸(三の城)跡には三岳神社が建てられている。ここまでは車で来ることができるが、ここからは急斜面を徒歩で登ることになる。

▲本丸(一の城)桝形門跡から山頂(本丸)へ続く登山路。この反対側には二の城へと至る路がある。

▲山頂の本丸である。城址碑や説明板が建てられている。

▲本丸から西側に降ると堀切や石塁跡が残っている。


▲本丸西南400mの谷地に残る井戸跡。現在、訪れる人は稀であろうと思われる。単独での探訪は危険だ。画像は昭和63年当時撮影した写真である。(1988/01) 

▲三嶽城南方の金指の平野からの遠望。正面三つの起伏の中央が城山である。(2004/11)
----備考---- 
訪問年月日 2004年9月26日 
再訪年月日 2008年7月19日
 主要参考資料 「静岡県の中世城館跡」他

トップページへ遠江国史跡一覧へ