鴨江城
(かもえじょう)

                   浜松市中区鴨江            


▲鴨江城は南北朝期に井伊氏と共に南朝方となった鴨江寺が幕府軍に抗した際に城郭化されたもの
と見られている。現在、城址とされる区域は寺院並びに学校等が建ち、遺構の確認はできない。
(写真・鴨江寺境内の中門と本堂)

鴨江寺の僧兵、
     南朝に与す

 鴨江寺の歴史は古い。奈良時代と呼ばれる以前の大宝二年(702)、天武天皇の勅願所として創建されたのがはじまりである。寺域には三百余の宿坊が建ち並んでいたと云われている。

 この寺が僧兵を擁して史上に登場するのは平安中期の長暦年間(1037〜39)のことで、戒壇院設置にからんで比叡山延暦寺と争ったときである。鴨江寺側は東海道を下って押し寄せる延暦寺の僧兵と一戦を交えるために現在の東若林地区に陣を張った。周辺の水田には水が張られ、戦いは街道に掛かる橋をめぐる激戦となった。現在、その地は「鎧橋」として残されている。

 次に登場するのが南北朝時代である。元弘三年(1333)、後醍醐天皇の寺領安堵の綸旨を受けた鴨江寺は宗良親王を擁する井伊氏(三嶽城)とともに南朝側に立った。

 暦応二年(1339)七月二十二日、足利尊氏の命を受けた高師兼軍による鴨江城の攻撃がはじまった。城とはいえ寺院の伽藍を楯にした戦いであるから、攻める幕軍にとっては容易であったに違いない。五日目にはあえなく落城。これが遠江南朝崩壊のプロローグとなった。

朱も鮮やかな仁王門。今にも荒々しい僧兵たちが得物をかざして飛び出してきそうである。

▲「鎧橋」。鴨江寺と延暦寺の僧兵が戦った激戦の地である(浜松市東若林)。

----備考----
訪問年月日 2004年10月17日
主要参考資料 「静岡県の中世城館跡」他