今城
(いまじろ)

             浜松市北区細江町三和         


▲ 今城は南北朝争乱のなかで井伊氏の三嶽城とともに落城した城砦群のひとつと
考えられている。しかし、その城史については不明な点が多い。この写真はかつて
土塁が残っていたという城址東側の様子である。斜面上の蜜柑の木が並んでいる所
に土塁があったと言われる。その下の段は農園化のために改変されたものである。

井伊谷城の斥候城

 城館資料によれば、「中川村郷土誌」に井伊谷城の斥候城として築かれ、岡弥次郎直藤、子美濃守直春、孫近将良藤らが在住したと言われる…興国元年(1340)に三岳城落城の頃、今城も墜ちたと考えられる、とある。
 岡氏は井伊氏十一代景直の頃に分家したとされている(代数は井伊家譜による)。時代は鎌倉末期・南北朝争乱の頃ということになりそうだが確証はない。南朝の宗良親王守護の臣として井伊氏とともに戦ったのであろうか。
 今城は南北朝争乱期に井伊氏の本拠である井伊谷城三嶽城を中心とする城砦群のひとつに考えられているようであり、南方から迫る入口に築かれた斥候城であったと見られているようだ。斥候とは味方の前衛にあって敵の動静を探るというような意味であるので、物見の城砦として築かれたものなのであろう。残念ながら、平成15年(2003)の発掘調査においては目立った中世遺物は出土していないとのことである。
 時代は下って戦国時代、永禄十一年(1568)十二月徳川家康が遠江に進攻する際に井伊谷三人衆と呼ばれるようになる鈴木重時、近藤康用、菅沼忠久らを道案内として井伊谷に迫り、今川支配下にあった井伊谷城を落として浜松から掛川へと駒を進めた。
 「引佐郡誌」には、伊勢平氏関川合の末孫(井伊谷三人衆の一人)鈴木三郎兵衛盛房の居城たり…その後裔此地に住す、とある。家康の道案内として先鋒となった鈴木重時と関係があるのだろうか。
 現在、城址とされる地はミカン畑となって土地の改変が進み、城としての遺構は残されていない。しかし、近年までは土塁、空堀、櫓台と思われる高さ3mほどの土壇があったと言われている(私も現地でこの話を聞いた)。おそらく戦国期の鈴木氏による城館遺構であったものと思われるが、どうであろうか。

▲ 西側から見た井伊谷川と今城跡。城跡の後方の山は稲荷山で、物見台的役割を果たしていたものと見られている。

▲ 城址全体はミカン畑となっている。

▲ かつて空堀が存在していた所。現在はその痕跡すら見ることはできない。

▲ 城址は井伊谷川が湾曲した突出部にあり、北・東・西の三方が川に囲まれている。これは城址北端部で、遠く三嶽城が見える。

▲ 城址西側の井伊谷川。右岸(西側)と比べて城址(川の左側)の方が高台となっている。

▲ 城址から見た稲荷山。物見台としては最適な位置にある。

▲ 稲荷山から南方浜名湖方面を展望。
----備考---- 
訪問年月日 2011年12月4日 
 主要参考資料 「静岡県の中世城館跡」
 ↑ 「前田遺跡・今城」 
 「引佐郡誌」他

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