いいのやじょう
(いいのやじょう)

                   浜松市北区引佐町井伊谷         


▲ 城址南方より望見。手前の川は神宮寺川である。城址右側の連山は三嶽城である。

井伊家断絶の
         危機を乗り越えて

 井伊谷城は西遠地方国人衆の先駆けともいえる井伊氏の居城である。初代共保がここで地盤を固めたのが平安時代の九世紀中頃のことである。
 その後、井伊氏は遠江南朝の領袖として宗良親王を奉じ、道政、高顕父子が激烈な戦いを展開している。
 そして戦国時代には今川氏との確執を経て、その幕下なり、永禄三年(1560)には直盛が今川義元とともに桶狭間合戦で討死を果たしている。
 さてこの直盛には子がなく、このことが原因で井伊氏存続の危難の時期をむかえることとなる。
 井伊本家の行く末を憂慮していた叔父直満は直盛存命中から万が一に備えて我が子直親を継嗣に据えようとしていた。しかし直盛の家臣小野但馬守はこれを善しとせず、
「直満、直義兄弟は今川家に反意あり」
 と今川義元に讒訴したのである。
 義元は直満兄弟を駿府に出頭させて殺してしまった。
 この時、直満の子直親はまだ幼く、家臣の今村藤七郎正実に抱かれて信州伊奈郡市田郷(現・飯田市)の松源寺に隠れた。この直親が義元に許されて井伊谷に戻ることができたのは、小野但馬守の他界後の弘治二年(1556)のことであった。
本曲輪跡
▲ 城址本曲輪跡。井伊谷の地が眼下に広がる。
 しかしどういうわけか、直親もまた家臣の讒言によって殺される運命となってしまったのである。永禄五年、直親は弁明のために二十騎ほどで駿府へ向ったのであるが、掛川まで来たところで朝比奈氏の手によって討たれてしまったのである。享年二十七歳であった。しかも所領は没収となり、井伊家もここで絶えるかと思われた。
 が、天は井伊家を見捨てなかった。直親の子万千代(二歳)が新野左馬助(御前崎市)に匿われ、密かに育てられたのである。天正三年(1575)、十五歳に成長した万千代こと直政は浜松城に進出していた徳川家康に見出され、故地井伊谷に復帰することができたのである。
 いうまでもなく、直政は徳川四天王のひとりに数えられる活躍を成し、後に彦根三十万石の太守へと大きく井伊家の花を咲かせたのである。
井伊直親公墓
▲ 都田川河畔の井伊直親公の墓。遺骸は掛川か
らここまで運ばれて荼毘に附された。墓前の二基の
石灯篭は井伊直弼の寄進である。(浜松市細江町)
----備考----
画像の撮影時期*2004/09-11