おいだいらじょう
(おいだいらじょう)

                   浜松市浜北区大平         


▲ この石段を登ると、城と運命をともにした勇士の御霊を鎮める
  五体力神社がある。その裏手一帯の山間部が城域である。

遠江南朝
       最後の牙城

 後醍醐天皇による南朝巻き返し戦略によって第八子宗良親王が遠江南朝勢力に迎えられたのが暦応元年(1338)九月のことであった。親王は遠江南朝方の中心的存在であった井伊道政の本城三嶽城に入り、北朝方の来襲に備えた。
 ここ大平城は三嶽城の側面を防御するため、東側からの敵を食い止める位置にある。
 翌年七月二十二日、海路遠州灘から上陸した高師泰率いる北朝勢が大平城の攻撃を開始した。
 ところが巧みな曲輪配置と城兵の奮闘によって北朝勢の攻撃は難渋を極めた。長期戦になると判断した高師泰は軍の一部を大平城の包囲に残して三嶽城の攻略へと向ったのである。
 三嶽城の攻撃は高師兼、仁木義長の軍勢も加わって激しい攻防戦が繰り返された。
 東の守りが大平城であるなら西の守りは千頭峯城である。その千頭峯城も十月には落城。三嶽城への北朝方の攻勢は激しくなった。
 年が明けて暦応三年正月三十日、大平城の城兵たちは三嶽山の頂上から立ち上る黒煙を望見して本城の落城を知った。
「いよいよ我らも最期か」
 城兵らが最後の一戦を覚悟したとき、三嶽城を脱出した井伊道政らと親王が現れた。
 親王を迎えて大平城は再び持久戦を続けることになった。
 春が過ぎ、暑い夏が過ぎ、もはや落城も時間の問題と察せられる頃、密かに親王を信濃に落とし参らせて城兵は最期の戦いに臨むことになった。八月二十四日のことである。
 この戦いがどのようなものであったのか、またどのような武将が果てていったのかは伝えられていない。ただ、鎮魂のために城址に建立された五体力神社の由緒に五勇士とあるのみである。その五勇士の詳細も今となっては容易に知ることはできない。
城址碑
▲ 本曲輪に登る途中に城址碑がある。
----備考----
画像の撮影時期*2004/05