千頭峯城
(せんとうがみねじょう)

県指定史跡

                   浜松市北区三ヶ日町摩訶耶       


▲ 山頂本曲輪跡と城址碑。

遠江南朝、
    西の牙城

 暦応二年(1339)七月二十二日、宗良親王を迎えて意気上がる遠江の南朝勢は足利幕府軍との戦闘に突入した。

 幕府軍は二手に分かれた。高越後守師泰は大平城を攻め、高尾張守師兼は鴨江城を攻めた。何れも親王を擁する井伊氏の本城である三嶽城を中心とする支城である。このうち鴨江城に関しては特異性があるが、それは別項にゆずることとする。

 ここ千頭峯城が戦闘に突入するのは、鴨江城をわずか二日で落とした高師兼の軍勢の来攻によってである。守将は井伊氏の重臣奥山六郎次郎朝藤である。これに地元の県氏、大江氏などの勤皇党が加わり、城の兵力は数百騎と伝えられている。

 同じ地元でも浜名氏(佐久城)は幕府軍に参陣して千頭峯城の攻撃に加わっている。

 戦闘開始の期日、またどのような戦いが繰り広げられたのかは記録になく、ただ落城が十月三十日とあるだけである。かりに高師兼軍が鴨江城攻略後ただちに千頭峯城攻撃に取り掛かったとすれば、約三ヵ月間持ちこたえたことになる。

 本城である三嶽城も高師泰と仁木義長の軍勢の攻撃を受けていたが、千頭峯城の落城は痛かった。高師兼軍も三嶽城の攻撃に合流したからである。その三ヵ月後の翌年正月三十日に三嶽城は落城した。そして最後の牙城となっていた大平城が八月二十四日に落城。遠江南朝の抵抗は終息した。

 その後、千頭峯城は歴史に登場することはなかった。それでも遺構調査の結果、戦国期の手法とみられる遺構も残存していることから、今川氏の手によって三遠国境を見張る砦として利用されたであろうことは想像できる。

 今一度、城址に立って周囲を見渡してみよう。

 南北朝期の城は、戦国期の城が戦闘と統治の拠点であったあったのにたいして単に戦闘を主眼としたものであったといえる。まさしく戦うための城であったのだ。

 三嶽城を守るために、東下してくる幕府軍を押し止めるために浜名湖北部に構築されたのが千頭峯城であり、これには幾つかの城砦群が付随していた。

 千頭峯城の南5`、猪鼻湖と浜名湖のつながる瀬戸に築かれたのが尾奈砦で、遠く東海道および多米峠方面を監視している。

 鯉山砦は千頭峯城の南方視界を維持するためのものであった。

 城址から東に目を転じると中千頭砦が望見できる。千頭峯城に匹敵する規模のもので、こちらの方が本城であるとの見方もあるほどである。この砦から通じる尾根道は奥山を経て三嶽城へと繋がっている。

 その他、周囲の鞍部には隠し曲輪、高所には物見台が設置されており、攻囲軍をさんざんに悩ませたことであろう。

 大平城の落城によって遠江南朝の戦いは終ったが、滅んだわけではない。奥山朝藤の子孫は北遠の山峡(高根城)に移り、南朝の皇子を護って勤皇の意志を貫き通したのである。

 時は移り、戦国時代をむかえ、いつしか勤皇の歴史も昔物語となった。千頭峯城はその後も黙って世の移ろいを眺め続けている。


▲城址全景。

▲城址本曲輪へと続く登山道。

城址南側に見える鯉山砦。

▲城址東方の中千頭砦。
尾奈砦
▲猪鼻湖北岸から見た尾奈砦。
----備考----
訪問年月日 2004年7月18日
主要参考資料 「日本城郭全集」他

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