佐久城
(さくじょう)

                 浜松市北区三ヶ日町都筑       


▲佐久城は浜名湖北に勢力を張った国人浜名氏の居城である。戦国期には
今川氏への忠節を貫いて徳川氏との抗争に敗れ、浜名の地を退去した。
 (写真・主郭跡の城址碑)

湖北浜名氏の盛衰

 鎌倉時代から浜名氏は猪鼻湖北岸地域の幕府御家人地頭としてその名が記録に登場している。源三位頼政の郎党猪鼻早太の裔とされている。

 その浜名氏がここに城を築き、十代に及ぶ国人領主として繁栄することになるのであるが、その祖となったのが浜名左近大夫清政である。

 ときは南北朝時代。西遠一帯は南朝方の井伊氏(三嶽城)の勢力が強く、宗良親王を迎えてからは益々意気盛んであった。そのような情勢のなかにあって清政のみは井伊氏に従わず、北朝の側に立っていた。周囲が南朝方によって固められると清政は浜名の地を退去せざるをえなくなってしまった。
「捲土重来、必ず戻るぞ」
 清政の故地奪還の決意は固かった。

 暦応二年(1339)、北朝足利軍の反撃が始まった。清政は高師兼軍に合流して井伊攻めに加わり、見事に故地への凱旋を果たしたのであった。

 はじめ猪鼻湖西岸の鵺代に居館を構えたが、その基盤を確固たるものとするために東岸の大崎半島に城を築き、貞和四年(1348)にそこへ移った。これが佐久城である。

 以後、浜名氏は湖北一帯を治める領主として代々続いた。清政の後は詮政、満政、持政、政義と続いた。その後の政明の代には戦国の世となり、今川氏に属して三河を転戦している。さらに頼親、正信、正国と続いて十代目が頼広となる。

 桶狭間合戦以後の今川氏の没落にもかかわらず頼広はその忠節を肯んずることはしなかった。永禄十一年(1568)十二月の徳川家康による遠江進攻に対しては抵抗の態度を示し、攻め寄せる徳川勢を撃退したという。家康は引馬城を落とすと今川氏真の籠る掛川城を包囲した。周辺の諸城は落城するか降伏して徳川の麾下に参じた。

 こうした遠江の情勢を見て佐久城内では「必ず徳川の大軍が押し寄せる」と大騒動となり、一門家臣が昼夜評定を重ねた。重臣筆頭は浜名一族で城内の南曲輪に居住する大屋安芸守政頼である。政頼は城主頼広の伯父にあたる。

 翌年一月、城主頼広は「城を退き、何処にか身を寄せ、時節を待ち愁眉を開くべし」と言い残し、子の政仲、政綱と従者二十四・五人で城を脱して逃亡、甲斐へ走ったと言われる。清政以来、二百二十余年にわたる浜名氏の繁栄はここに幕をとじたことになる。

 しかし佐久城には大屋政頼以下浜名氏配下の将士が残されたまま討死覚悟の籠城が続いていた。二月に入ると本多忠勝の率いる徳川勢が城に迫った。

 本多忠勝は津々崎の大明神山(佐久城の北約1.3km)に陣取り、降伏を佐久城に勧告した。城将の大屋政頼はこの勧告を受入れて、二月二十八日に城を明け渡した。籠城の将士の多くは徳川の麾下に加えられることになったが、大屋政頼のその後は分からない。記録にはこの日に逝去したとある。開城の日に自決して城兵の命を救ったのであろうか。

 その後は本多信俊がこの城に留まった。天正十一年、野地城の完成により廃城となった。

▲佐久城の対岸にある津々崎の白山神社。ここには佐久城の落城にまつわる話が伝えられている。徳川勢に開城を迫られた城内では籠城と開城の議論が続いたが、ある日城主自ら城を捨てて逃亡してしまった。城主には一人の姫がいた。(2023)

▲姫は城に残り「私一人でも戦う」と終には敵に斬り込んで討たれてしまった。首は湖に捨てられ、流れ流れて対岸の津々崎に流れ着いた。津々崎の百姓清左衛門は姫の首を拾って箱に収めた。その夜、姫が清左衛門の夢枕に出て「私を獅子神として祀れ、さすれば良き運を授けよう」と言った。清左衛門は首を埋め、小さな祠を造って祀ったという。「三ケ日町のむかとばなし」より獅子神様の話。(2023)

▲本郭と馬出郭間の土橋。(2020)

▲猪鼻湖に突き出た岬に城が築かれた。津々崎の白山神社からの望見。(2023)

▲城址入口。(2020)

▲城址見取図。(2020)

▲空堀跡から城域に入る。左が南郭、右が馬出郭。(2020)

▲馬出郭。(2020)

▲主郭虎口。(2020)

▲主郭内の雑兵長屋跡。(2020)

▲主郭の井戸跡。(2020)

▲主郭の現状。(2020)

▲主郭に建つ城址碑。(2020)

▲旧城址碑。(2020)

▲初訪城時の城址碑。(2004)

▲2004年当時の土橋。(2004)

----備考----
訪問年月日 2004年3月7日
再訪年月日 2020年10月11日
主要参考資料 「静岡県中世城館」
「遠江武将物語」他
「浜名記」

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